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「ちょっと近いが一番たのしい」場所を残す未来

ことしの春過ぎくらいから、私は自分の住む町のエッセイを書く仕事をしていた。東京23区のなかでそれぞれの区に住む人たちが、自分の住んでいる街の風景を綴る企画で、私は「港区」を担当し、その連載が9月で無事に終了した。

それまでの私は旅や移住のメディアで撮影や執筆をしていることもあり、東京の外にばかり目を向けていた。観光地や移住を促進をしている場所には目を引くもスポットがたくさんあるし、最近は歴史や住んでいるひとたちとの交流、観光のためではないその場所で生活している人たちのための特産物だったりがとても面白いことに気づきいた。また、この数年で友人が東京から地方に移住することが増えて、その暮らしの充実ぶりをSNSでの発信で見たりすると、余計に「東京の外」について思いを馳せることが増えていた。

しかし、去年の春先ころからの県をまたくことができない状況、むしろ春頃は家に出るのさえ恐怖心があった世界線に突入してしまい、旅や移住について思いを馳せるどころか、仕事がなくなってしまい大変な目にあってしまった。(まだまだこの状況は続きているのですが)

家に出るのはスーパーやドラッグストアなど本当に生活に必要なものを買うだけという日常がしばらく続いた。いつも当たり前だった、近所の好きな飲食店になかなか行けないこと、最寄駅から一駅で行けるギャラリーや美術館にも足を運ぶことができないこと、帰り道は音楽の余韻に浸りながら歩いて家まで帰っていたライブハウスに行けないことなど、この街に住んでいるからこそ楽しめていたことがあったんだなと、こんな形で実感することができた。

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そしてそれは、私が東京に上京してきた理由だったなと思い返した。盆地に一面田園の田舎にいた私はどうしても東京に出たかった。毎日の登校で聞いていた音楽をもっとライブハウスで身近に聴きたい、大好きなアートに触れるために美術館にたくさん行きたい、いろんな考え方をもった人にたくさんあって影響を受けながら生きていきたかった。10代の私はそんなことをずっと思い続けていた。そんな風に東京に憧れていたのに、10年以上東京に住み続けていてあたりまえのものになってしまっていた。しかし、今回のことで「自分の暮らす東京とは」と振り返ることができた。そして、ここ最近ずっと外に向けていた目線を内に向けて、「東京」という街についてなにか取り組みたいと思い始めていた。

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そんななかタイミングよくチャンスが訪れたのが「TOKYO LOCALS」のお仕事だった。しかも、自分の住んでいる「区」について、自分の言葉で書いて欲しいということで、これはちょっとした挑戦と思い5月からスタートした。

結婚を機に住むことになった「港区」。いまでも「港区に住んでいる」と言うと「港区女子じゃん!すごいね〜」なんて言われることも多々ある。しかし私はよくネットニュースで現れる(実際に見たことはない)「港区女子」とは見た目も中身も正反対。きらびやかなネオンに、高級レストラン、ブランド物のバックを身につけて歩く女子たち。私の人生でまったく無縁のものたちばかりで正直、この街に馴染むことができるだろうかと、住み始めたときは不安でしかなかった。

しかし、文字通り戦々恐々と足を入れると、意外にも下町っぽい街並みや私の好きなカルチャーや面白い場がたくさん存在した。六本木にはギャラリーがたくさんあり、現代アートに触れることができた。駅から離れたところには商店街や昔ながらのお店も多く、その街に住む人たちのコミュニティや交流があった。昔から家業で営業しているお店もあるし、新しく足を踏み入れ「港区」の街で挑戦をしようとする人たちもいる。ビルが建ち並ぶこの街にも風は吹いていて、新旧いろんな人たちがその風に乗って混ざり合うような心地の良いコミュニティが多いような気がした。

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そして、「港区」の街や気になるスポットを書いていくうちに、直面したのが、「歴史」と「地理」だった。

記念すべき第1回目に書いた場所は広尾にある「有栖川宮記念公園」。気分転換で散歩をする定番のコースで、丘や渓谷、池があり、ちょっとした森の中を歩いているような木々に囲まれて、公園の中をぐるっと一周するのに30分ほどかかる。エッセイを書いていると、「港区にこんなに巨大な緑のある公園がなぜあるのだろう?」「なんで外国の人が多いんだろう?」ということは必ず触れなければいけないポイントになり、そこからこの公園の歴史を知ることになった。

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また、駅からは離れているけど、とても活気のある商店街や通りがあるのも「港区」ならでは。近所の商店街もそうで、第3回で取り上げた「白金北里通り商店街」はどの駅からも歩いて15分以上は掛かる場所にあるのに、昔から代々続いているお店もあれば、わざわざ女の子が足を運んでまで訪れるオシャレなカフェもあったりする。

なぜ、そんな駅から離れた場所に商店街が?と調べてみると、江戸時代には東海道が生まれ江戸の玄関口になったり、明治時代以降は近くに路面電車が走っていたりと人の流れがそこにあったからという歴史があり、ちょっとした「ブラタモリ」感を味わうことができた。

最近、話題になった高輪ゲートウェイ駅前の高輪築堤跡が発掘されたニュースからも「港区」のいろんな場所で歴史を感じることができるのだ。

また、回を進めていくうちに、人から教えてもらう「歴史」や「地理」にも出会うことができた。

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新橋の「ニュー新橋ビル」で出会った「オザワフルーツ」のお母さんからはもともとこのビルが建つ前にここで路面店を営んでいたこと、昭和の時代は景気がよくて赤坂などの料亭にフルーツを卸していたこと、そこから時代とともに新橋のサラリーマンに寄り添うフルーツジュースをつくるお店になっていったことなどをとってもフレッシュな桃のジュースを飲みながら教えてもらえた。名刺をいただいたら、電話番号だけで、「インターネットみたいなものは全然やってないのよ〜なにかあったら電話してきてね」と言われ、ここに訪れて実際にお話を聞かないと知ることのできなかった「歴史」と「地理」を知ることができた気がした。

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また、表参道にある「山陽堂書店」では、5代目の萬納嶺さんのつくるコーヒーゼリーを楽しみながら、生まれも育ちも生粋の青山っ子の萬納さんから出てくる青山・表参道周辺の話はインターネットで調べても出てこない貴重なお話ばかりであった。

こうやって回を重ねていくたびに「東京都港区」という場所がキラキラした遊び場という勝手な妄想から、人や土地から教えてもらえるとても興味深い歴史がある街なのだと気付いた。それこそが本当の「港区」の姿なんだなぁと感じた。そして、そんな人たちがこの「港区」に住み続けていること、開発などで新しいビルがどんどん建ちならんでいっても、道路や昔からあるスポットが残っていることが「港区」の個性を残し続けて魅力的な地域にしていくものなのだと思った。自分のできること、撮影と執筆という仕事を通して気付けたのがとても嬉しかった。

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わたしはこれからも「港区」にしばらく住み続ける予定だ。これからも暮らし続ける自分の街がこの先どんな街になっていって欲しいだろうと考えたとき、「このままでいい」と思った。というか、「このままでい続けてほしい」という願望だ。街の現状維持というのは予想以上に難しい。渋谷や新宿、下北沢などの10年前の景色をはっきりと思い出せる人はいるのだろうか。それくらい東京という街は移ろいゆく大都市なのである。

今回の執筆の仕事で自分の住む街「港区」の本当の姿を少しだけ知ることができた。これからももっともっとたくさん知りたいと思った。

そんななかでも、
「このお店は100年も前からやっていて、その理由はこの場所にあるんだよ」
「ここの通りを牛耳っているあの若い人、実は実家がこの街でこの通りを盛り上げようとしているんだよ」
なんて話をまだまだたくさん知りたいし、応援していきたいなと思う。地方で聞くような言葉だけど、東京にだって人や土地で紡いでいっている歴史を持つ街があるのだ。「東京では人間関係が希薄だ。」という説は私は嘘だと思っている。だから自分の家から「ちょっと近いが一番たのしい」をまだまだ味わっていきたいと思っている。

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そのためには、そこに住む人たちが残り続けていてくれること、お店が残り続けることが大事だと思っているが、なによりそれを「記録」し続けることが大切だと思った。

今回の「港区」をテーマに執筆をするときも、インターネットや資料、人の声をとてもたくさん参考にした。この街に住む先人たちの「声」のおかげでこの街がどうやって生まれて育ってきたかを知ることができ、「港区」という街への印象のレイヤーがどんどん深くなっていき、興味をそそられるようになった。建物や街の景色ががどんどん新しくなっていこうとも、こういう「歴史」を残していくことで街の個性が色濃くなっていくのだと思う。

今回の執筆や撮影の仕事でその一端を1ミリほど担えることができていたら嬉しいし、これからも個人として発信していきたいと思っている。そして、わたしは今、そういう街を写真で撮っていくことに興味をもっている。いつも言っている通りだが、私ができることいえばそれくらいなのだから。その結果は未来で、私のように自分の暮らす街に興味を持って調べてくれた人が私の発信を目にしたときだと思う。そうやってこの先の未来も巡っていってほしいと思う。

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#暮らしたい未来のまち

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