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「好きに撮る」ことで「写真だったら、関わる全員を幸せにできるかもしれない」と思う願い

フリーランスのフォトグラファーとして活動して3年半ほどたち、新しい出会いもたくさんある。前職のことや、結婚する前の私を知らない人がたくさん増えてきたなかで一番多く質問されるのが「なんでフリーランスのフォトグラファーになったの?」という質問だ。

写真の学校に通っていたわけでもなく、バックグラウンドもそんなにオープンにしていないので、こんなポッと出の私を見たらたしかに「なんで?」というか「どうやって?」というのは気になるのかもしれない。その度に、前職の話やご縁のあった人たちのおかげで仕事をしている話をしているのだけど、いつも自分のなかで思うのは「なんで写真を撮っているんだろう?」ということだ。

写真は趣味として楽しんでいて、写真展をやったり表現をすることを楽しんでいたけど、写真を撮ることを仕事にしてからはその両立はすごく難しいなとずっと感じている。

そもそも写真を仕事にしたのは、撮ることが「好き」なのではなくて、「得意」だと思ったからだ。自分自身でも変わってるなとは思っていて、決定的瞬間を残したいとはほぼ思ったことがなく、「上手に撮れるように」「私の写真を受け取ったひとが幸せになってくれればいい(そこに自分の意志は特にない)」とずっと思って撮っているので、アーティストではないんだなと残念ながら自覚したタイミングで職業としてのフォトグラファーを選んだ。

となると、正直な話「生きるために写真を撮っている」ということになる。実際のところそうだし、コロナ禍になってからは「生活どうしよう」と何度も焦り、それでもフォトグラファーとしてなんとか生き延びてきたわけだ。

ただ、そこからなんとなくスランプというか、「自分らしい写真」に対して疑心暗鬼というか、うまく表現できていないかもしれないと感じはじめていた。仕事を失ってしまうのが怖いから無難で誰が見ても受け入れてもらえる色味や構図で写真を撮ることが増えてきた実感があり、実際にそういう撮影を求められることもしばしばあったので、「三浦さんの写真が好きで依頼したので、好きなように撮ってください」と言われても、「え、、、好きなようにといっても、どんな風に撮ったら良いの?」と考えてしまったり、納品した後でも「これで本当によかったのかな?」と考えてしまうことが何度もあった。

もしかすると、「思っていた写真とは違っていたな」と思われてしまった仕事もあったかもしれず、直接そんなお言葉をいただくことはなかったけど、もしそんな風に思われてしまった仕事があったのなら、本当に申し訳ないなとここ数ヶ月はずっと思っていた。

ちょっと前にも「三浦さんの好きなように撮ってもらえれば大丈夫なんで!」と言ってくださった仕事があり、正直もうその言葉が苦手意識にすらなっていて、結局どう撮れば良いのか撮影当日までわからずに現場に向かった。ほどんどが知り合い経由からのお仕事のなかで、めずらしくまったく面識がなくご依頼をくださったクライアントさんでもあり、事前にお打ち合わせはしているものの、相手との信頼関係も0からのスタートで求めているものを撮れなかったらと不安でしかなかった。

とある地方での撮影で車での移動だったので、初対面ではありつつ自分のお仕事のことやクライアントさんの仕事の話などをしながら、なんとなく撮影のイメージを膨らませていった。ただ、車内でも「いろいろ言ってますが、私たちは素人なので、本当に好きなようにとってもらって大丈夫なんで。」と言われて、その言葉に車酔いしそうになった。「とはいえ、あなたが欲しいイメージもあるだろうに。それと違っていたらどうしよう」なんて考えていた。

そして、撮影現場に到着すると、広大な平原に広々とした空。あまりに広すぎて、どこに立って、どこにファインダーを向けて、シャッターを切ったら良いか途方にくれるくらいの場所だった。

とりあえず「無難に無難に…」といろいろ歩いてまわっていろいろな方向から写真を撮って、その場の風景の取りこぼしがないようにと考えながら撮影していた。そこには「わたし」というものはいなくて、「しっかりと記録しなくちゃ」という感情が強かったと思う。そんなこともあり、渾身の1枚みたいなものもなく、「一通り撮れました」という合図で次の撮影場所に向かった。

次の現場でも相変わらず広大な農地の背景には山々が並び、空が広い場所だった。「またどこを撮ったらよいんだろう」なんて絶望しつつ、農地を管理している方とクライアントさんたちがお話している間にわたしひとりで歩き回ってパシャパシャとシャッターを切っていた。

そんなとき、クライアントのおひとりが撮影中のわたしの側に寄ってきて、撮影している様子を伺っていた。「だいじょうぶかな〜撮影できていない場所とかないかな」とか考えながら、シャッターを切っていると、ふと彼女が声をかけてきた。

「今回、うちは初めてフォトグラファーさんを頼んで写真撮影をしてもらうんですが、初めてのことだったのでいろいろなフォトグラファーさんのホームページを見て探していたんです。そんななかで、三浦さんのホームページの一番最初に映し出される写真がとても印象的で、あの写真を見た瞬間にこの人にお願いしようって決めたんです。だから、本当に好きなようにというか、あの写真を撮ったときと同じような気持ちで撮ってもらえれば大丈夫なんで」

その言葉を聞いた瞬間に、みんなが言ってくれる「好きなように撮る」の本当の意味を理解した。

わたしはあの写真を撮ったとき、被写体の子が輝ける表情を撮りたい、見てる人がドキッとしてしまうような写真にしたい、そしてなんだかわからないけど外に出て四季を感じたくなるような気持ちにしたいと思いながら撮った記憶がある。私が撮りたい写真は被写体の子(ものや場所)も写真を見てくれるひとも全員が幸せになってくれる写真だ。この被写体の子とは何年も撮影をしていて、ふたりにとってのお気に入りの写真はたくさんあって、そのなかでも本当に奇跡の一枚だなと思えるくらい大好きな写真だ。

これはあくまで自分ひとりの作品撮影だからできることだと思っていて、クライアントワークでは相手の求めることを一番に考えなくてはとずっと思っていた。

ただ、よくよく考えると、日本にたくさんいるフォトグラファーのなかで独学で学び、色味もまあまあ特徴がある私を選んでいただいている時点で、誰でも撮れる無難な写真なんて求めていないんだろうなとも思った。私を求めてくれるのならば、仕事以外で作品撮りとして撮影している写真と同じように撮ればいいんだと。私の写真を見てお願いしてくれるのだから、「私が撮る写真」というのをちゃんと意識しないといけないんだなと気付いた。

あの写真と同じように、この場所で一番にきれいな場所を探して撮って、見てくれた人がいいなと思ってもらえるように、そして四季を感じてもらえるような写真を。そして、撮影をお願いしてくれたクライアント、撮影させてもらった場所、その写真を見てくれた人たち全員が幸せになって欲しいと思いながら撮れば良いんだなと。

そう思った瞬間に、この広大な大地を無難に撮れ高を考えていろんな場所を撮ることの意味のなさをすぐに感じて、いつも通りに光のきれいな場所、この場所で一番かがやいている場所を探している自分がいた。

その後の納品した写真でも案の定というべきか、そうやって意識した写真たちがクライアントから選ばれていて、ホッとした自分がいた。

生きるために撮影するのならば、誰が見ても受け取ってもらえる写真を撮れば良いと思っていたけど、目の前の私をと指名してくれる人たちにとってはそんな写真ではなく、「私が撮る写真」を必要としてくれていたんだなと理解した(そして大反省会がはじまった)。

そう気付いてからは撮影するのが、気持ち的にとても楽になった。もちろん、「誰が見ても受け取ってもらえる写真」を求められることもあり、そんなときは「そうは言っても、ちょっとは私らしさを出してやる!」と意気込んだりしている。そして、ダメ出しをくらうことももちろんある…笑
でも、「もっと普通の写真が欲しかった」と言われても、そうやって挑戦して撮っていた方が、「無難に撮ろう」と絶望しながら撮っていたときよりも、撮影しているあいだも自信をもって撮っているなと思えている。

わたしの写真が好きだからと言ってお仕事をくれる方がたくさんいて、その稼ぎで生活ができているというのはおそらく奇跡的なことだと思っている。実際にだれでもフォトグラファーと名乗れるこの時代に実現できているのはほんのひと握りなのだと思う。

だからこそ、わたしの写真が好きと言ってくれる人たちの言葉を信じて「好きなように撮ってください」と言われたときは、いつもと変わらずに光を意識して、その場所がやわらかい雰囲気に満ち溢れるように、そして、関わってくれるたくさんのひとが幸せになれるようにシャッターを切れたら最高なんだろうなと思う。

「なんで写真を撮っているんだろう?」

もちろんそれは職業として選択して生きるためではあるけど、やはりそこには「写真だったら、関わる全員を幸せにできるかもしれない」というのがある。
私にとっては仕事として写真を撮ることが、いまのところその願いは実現しやすいと思っている。

わたしはこれからもずっと誰かの幸せのために写真を撮り続けていきたいと思っている。

最後まで読んでいただいてありがとうございます。写真展が続けられるようにサポートしていただけるとありがたいです…!