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地獄でずっと遊んでろ―清家雪子『月に吠えらんねえ』

「秒速5センチメートル」のコミカライズを担当した清家雪子の「月に吠えらんねえ」。実在の詩人を、その作品から受ける印象をベースにキャラクター化した漫画作品である。

主人公は朔くん(萩原朔太郎)。
虚弱、精神薄弱、ヤク中、統合失調気味の、作中きっての情緒不安定な人物である。仲良しなのは、先生と仰ぐプレイボーイの白さん(北原白秋)と親友の犀(室生犀星)。彼ら3人をメインに、その他にもたくさんの詩人や歌人が登場する。

彼らが暮らすのは架空の町、□街(=詩歌句街)。風光明媚を求め、おしなべて生活力がなく貧乏人気質な詩人達が集う田舎町である。(ちなみに小説街や政治街など他の街もある)

一見近代日本をモデルにした普通の街並みなのだが、これがとんでもなくて、カエルの姿をした住人が毎日死んでは生き返ったり、朝と夜の切り替えが人力だったり、テレビを録画しようとしてうっかり1945年に設定したら年代が切り替わって空襲が始まってしまったりする。こうして書き並べてもみてさっぱり意味がわからないが、つまり秩序や理屈など通用しない、なんでもありの場所なのである。

そんな、ファンタジーと呼ぶにはおぞましいあれこれに満ちた街で、朔くん達が呑んだくれたり泣いたり喧嘩したり絶望したりしながら暮らす様を描いた物語だ。

変人だらけの□街においても朔くんの情緒不安定っぷりは突出しており、しょっちゅう鬱状態に陥っては自分で勝手にブレンドしたスペシャルドラッグを一気飲みしてオーバードーズでひっくり返ったりしている。
他人の視線を恐れる朔くんは定期的にひどく不安定になる。自室にこもって誰とも会おうとしない朔くんに、見舞いに来た犀は襖越しに思う。

「結局 俺もお前にとって『重荷でしかない他人』だった」

もっとも近しい相手と会うことさえ、何かを強いられているような負担に思える時というのは、誰しも多かれ少なかれ感じたことがあるかもしれない。
□街の朔くんは、そういう感覚に必要以上に追い詰められてしまう人物だ。いかにも生きづらそうな朔くんと、親友だというのにそれ以上踏み込むことを許されない犀の間に立つ襖が悲しい。

けれど、朔くんだって他者と完全に関係を断ちたいわけではない。むしろ、誰かと心から理解し合うことを渇望している。
妄想が具現化する□街で幻覚に溺れ、一人で勝手に追い詰められた朔くんは空を仰いで「さびしい さびしい」と声をあげて泣く。読んでいるこちらの胸が張り裂けそうなぐしゃぐしゃに苦しそうな顔をして。

朔くんを憂い憐れむ犀に対し、白さんはこれっぽっちも朔くんに関心がなく、いつもぞんざいな扱いをする。ないがしろにされた朔くんはまたわあわあ泣きながら詩を書いて、白さんに送りつける。
豪奢な屋敷でそれを受け取った白さんはほくそ笑む。

「あいつは泣かせると面白い詩を書くんだよな」

どうすれば朔くんからいい詩を引っ張り出せるかを知っている白さんは容赦がない。
けれど朔くんも朔くんで、白さんが勝手に雑誌に載せた自分の詩を見て、焦点の定まらぬ目で「この変態…」とつぶやいて笑うのだ。
ただ白さんに踊らされているのではない。朔くんもこの茶番を、ちゃんとわかっている。

この、救いがたさよ。
救いようのない、才能と創作という絶望的などん詰まり感よ。
さびしいのも本当。誰かとわかりあいたいのも本当。
でもその一方で、朔くんは孤独と欠落感こそ自分に詩を書かせる源なのだと知っている。それが失われたら終わりだとわかっている。

満たされたいと切望しながら、欠落を埋められることを拒んでいる。彼が本当に恐れているのは、もう何も書けなくなってしまうことただそれだけだ。

朔くんだけではない。あっちこっちの女と寝ては殺してしまう白さんも、好きなもの、欲しいものをぶん殴って遠ざけてしまうチューヤくん(中原中也)も、女に幻想を抱くあまり現実の女に触れることのできないミッチー(立原道造)も、□街の住人達は致命的に欠けていて、偏っている。

彼らはそんな自分の歪さにのたうち回りながら言葉を紡ぐ。
正気と狂気の境目、うっかりするとどこまでも落ちてしまいそうな場所、□街で。

「おもひ まぼろし ことだまの街。
これはそんな街の、そこで夢見る住人たちの物語なのです。」

新しい何かを生み出すということは、なんて業の深い行為なのだろう。
惨めで不格好で、奈落を這いずるかのような。
創作することの、それでもなお崇高な美しさが、この作品には詰まっている。

読みながら私は思う。
ああ、朔くん泣かないで。
だってその姿は余りにもかわいそうで、余りにも甘美で。
だからどうか、その幸福な地獄でずっと遊んでいてほしい。

#エッセイ #書評 #漫画評 #清家雪子 #月に吠えらんねえ

ハッピーになります。