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人間がきのこに見える

最近、三島由紀夫の小説を読んで価値観の変化がちょっとあった。

自分は人とは違うのだという貴族意識って、兎にも角にも下らない。昔の人が書いた本だと特に顕著だ。

ネット社会の今みたいに、上でも下でも簡単に他人の生活を知ることができなかったから、“生まれ”という実力とは関係ないものに貴族階級の人たちは絶対的な謎の誇りを持っている。
(そこに思い至らない時点で滑稽なんだけどね)

じゃあ金持ちが得られるものってなんだろうか?

①希少性のあるものを容易に手に入れられる。

②最新の医療を選択できるので、本来の寿命より早く死ぬ確率が低くなる。

③一般人よりも先に最先端の技術を体感することができる。

①に関しては、やたらと酸っぱいたっかいコーヒーが飲めたり、調度品をゲットできたりするよね。

高い飲食物って、高い=絶対美味しい…わけではなく、大体が希少性に伴って値段も上がっているだけだ。

調度品については、いくら希少性の高い物を手に入れられたとしても、それを1日中愛でたりできるわけではないし、また、家の敷地も広くなると自分の所有物だという感覚が体感的に薄まりそうである。つまんないね。

②に関しては、言うても現代でそれだけ有意義な延命が出来るのかが謎である。ロックフェラーもジョブズも細木数子も死んだよ。
(ロックフェラーは都市伝説的に時代を超えて生き返させられそうだけど)

③は、特に古い小説を読んでいて思った。

金持ちは確かに最先端の技術を体感する機会に恵まれやすい。本人達もそれは自慢なんだろう。

でも、技術なんていくら早く体感できても10〜20年したら普通…もしくは既に遅れたものになってしまう。

今読むと昭和の金持ち達の生活なんて、文明としてはクソみたいで、どう考えても今の金ない一般人の方が高い文明で暮らしている。

でも人間の態度は変わらない。

昔の小説の中で、アホみたいに移動が大変だったり温度調節が大変だったりしながら、金持ちはめちゃくちゃドヤっている。たった後何十年かで一般人も体感できる技術に対して。その時だけ、人と違うって心理的な段差を作ることにしか価値を感じられない様が滑稽だ。

金持ちだからってその分だけ五感が倍なわけではない。人間の基本デザインは一緒だ。

金持ちは=高い文明…で暮らせることが幸せに繋がるのならば、少なくとも現代人は昔の人の倍幸せに生きていなければおかしい。また、未来に生きる人達は今の自分達より倍幸せに生きているはずだ。そんなわけがない。

それどころか、こんなにも情報が氾濫していない過去の時代を生きていた人達の方が、感覚が研ぎ澄まされていて体感的な幸福値は、高かったんじゃないか?という気すらする。

なんてことを考えて、ますますお金に興味なくなって餓死まっしぐらである。一生歩くの大好きだし、神社の石段に座りながら紙媒体で小説読むのが最高に幸せなんだな。変な向上心も持たずに、60歳ぴったりで仕事辞めて、出不精で家でひっそりと歴史と相撲の本ばっか読んでた死んだ爺ちゃんも幸せそうだったし。

「殺人が対象の一回性を滅ぼすためならば、殺人とは永遠の誤算である。」って金閣寺の小説に書いてあったのを見て勝手に色々と腑に落ちた。

自我や個性なんて結局幻想で、私たち人間は地球の上をきのこのようにニョキニョキ生えてきては、萎んでいき、生えてきては、萎んでいくのを繰り返す。乱数的なイレギュラーきのこも抱えながら。
(天才や障碍)

だから自分は特別だとか貴族意識に誇りを持っても外から見ればきのこはきのこだし、あっても原木栽培かとか菌床栽培かとか違いはそんなもんだろう。

人間をきのこに例えた時、そりゃこれだけ柔らかいから育つ過程で環境に影響されて形が出来上がるし、それを調整できるのも大きくなってからではたかが知れてるし、なんだか人間の精神みたいだな〜って自分で勝手に納得しちゃった。

かしこ。

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