テラハのじけん

最新のテラハは全部見てた。


だから今回の事件は結構ショック。


人が亡くなる時って、その反応で人間性が見える。


「話を聞いてあげれば良かった」ってタレントのコメントを見た。ひねくれ者としては違和感しかなかった。


私も20代半ばの時、色んな事が重なって本気で死のうと思ってネットで楽な死に方ばっかり検索してた時期がある。


もう本当に理屈じゃなくて、たぶん脳の快楽物質か何かが病的に枯渇してて、この先の人生に不安要素しかなくて死ぬことが救済でしかないとすら思ってた。「死のう」って意思じゃなくて「死ななきゃ」だった。頭をスッキリさせるために寝てみても外を歩いてみても首の付け根がなんかズンッとしてる感じが取れなくて何してても辛かった。


自分でもどうしたらいいか分からなかったけど、何よりも人に迷惑をかけたくなかった。


友達に「励ます会」って誘われて飲みに行ったりもした。私の話を聞いてもらうていでの会だったけど、巧妙に気付かれないようにこっちが傾聴していく方に持っていって、結局は友達側の会社の愚痴大会になって終わった。


何よりも人に負荷をかけるのが嫌だった。


なんだろうか。


人に相談したくらいで気持ちが楽になるならとっくにその手段は取ってる。


「話を聞いてあげる」のていで来られるのってただただプレッシャーにならないだろうか?


人に負荷をかけるのが許せない人間が「聞いてあげる」と相手に時間や労力を使ってもらうなんて申し訳なくて気が滅入る。


さらに、話をぶちまけたところで自分の気持ちが楽になる保証もない。(聞いてあげるとわざわざ来られたのに効果ありませんでしたとは申し訳なくて言えるわけがない)


「世の中には人に話を聞いてもらうだけで楽になる人間がいてそれが普通なんだ」という目に見えない事実も突きつけられてしまう。


だから私は現状が辛い人に対して「してあげる」という姿勢なんて絶対に取れない。


まぁ30歳も過ぎると自分のことも他人のことも不完全な部分が許容できて、弱いところ見せられるようになるし、他人の足りてない部分も気にならなくなる。

メンタルが落ちるのも「あ、今身体冷えてるな」とか「そういえば生理前だった」とか気圧が低いとか眠りの質が悪かったとか、運動不足が続いてたとか、いくつか原因を思い浮かべて過去の経験から自分への物理的なケアもできるようになる。


何が言いたかったかっていうと、人が気に病む時ってそんな徐々に周りに分かりやすいように弱るわけじゃないってのと、誹謗中傷は自己肯定感の低下の後押しになってしまったかも知れないけど、それは絶対的なトリガーではないと思うんだよねぇ…と。弱ってる時ってネガティブな情報ばかりに目が行く。


SNSをなくした方がいいとか、理屈で使わなければいいとか言う上の世代の人達がいるけど、物心ついた時からインターネットがあって何の疑問も持たずに皆で息を吸うようにSNSを使って来た今の20代にとってのSNSの重みって、やっぱり上の世代とは絶対違うしその論理を想像できるはずがない。


常識とされてる理屈は、時に否定にも繋がって誰かを傷つけることだってある。


難しいね。目に見えて分かりやすい答えなんか答えじゃないんだ。気丈な人がいつもそのまま心が強いわけではないように。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?