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にくのひ

じいちゃんが2月9日14時10分に亡くなった。

トイレで立てなくなって救急車で運ばれたのが12月16日だからあっという間だった。

兄は初孫でそれに続く孫の私も、両親が不仲になってじいちゃんばあちゃん家に転がり込むまでは本当にまっすぐ猫可愛がりされたものだ。

私はじいちゃんに異性を感じたことが一度もない。特定の女優にデレデレしている姿を見せたことや、メスであるから私を兄とは異質に可愛がってきたり変な距離感を感じさせられるようなことは全くなかった。物心ついた頃からばあちゃんとも完全に熟年夫婦で、若い頃の男女感を想像させられた瞬間は一度もなかった。

それはもう、ちびまる子ちゃんの漫画のように、記号のように「じいちゃん」という一貫した存在だった。

だからばあちゃんが病床で亡くなったと連絡があって駆けつけた時、ばあちゃんの頭に手を当ててキツツキのような勢いでおでこにキスをしたのを見て本当にびっくりした。初めてこいつら夫婦だったんだなって思った。

じいちゃんはばあちゃんが危篤になった時もばあちゃんが好きだったアンパンを毎日買いに行って台所に置いておいては母ちゃんに「もう食べれる状態じゃないのに」って裏でブチギレられていた。

じいちゃんはクソルーチン野郎だった。

毎朝起きる時間も寝る時間もご飯を食べる時間もキッチリ決まっている。朝起きたら本当に聴いてるかどうかは別として、英語学習のラジオを流す。そして日中は戦争・政治・相撲と自分の好きなジャンルの読書かYouTube鑑賞。夜はビールか焼酎を必ず一杯。

ここ数年はほとんど外に出なかったけど、外出の時は丸い帽子をかぶるのを忘れない。

食器もお箸もコップもお気に入りのものをエンドレスで使う。

気質がオタクだから、どこにアウトプットするでもないのに自分の好きなジャンルは死ぬほど本を読むし、自身が綺麗に書いたノート・スクラップ帳も山のようにある。

ここまで書いた通りに完全にインドアだけど、ばあちゃんが14年前に亡くなってからは余計外へ出なくなった。

私と母ちゃんはボケないようにと悩まされたし動かないことにイライラさせられたけど、じいちゃんは大好きな戦争・政治・相撲関係の情報を粛々と、ずっとずっと、吸収し続けた。

じいちゃんが死ぬちょっと前にFaceTimeで話をした時も告知のショックで声が出せなかったのに、相撲の誰が勝った負けたには首をブンブン動かして反応した。

悪く言えば、間違いなく“融通が効かない”タイプの人間だ。

でも、こんなに意地らしく真っ直ぐ真面目に自分のためだけに好きを貫ける人がどれだけいるだろうか。

今日忌引きをいただくのに、職場の勤怠チャットに書き込んだところ、同じ部署の女性が「私も祖母が亡くなった時、僧侶さんから人間は亡くなっても聴覚はしばらく残るから沢山話しかけて下さいと言われました。えりんさんも沢山話しかけてみてくださいね。」とレスをくれた。

急いで地元の安置している葬儀場に行って20時頃、じいちゃんに線香をあげることができた。

一緒にいた母ちゃんには部屋から出てってもらって、じいちゃんの頭を撫でながら、らしくないなと思ったけど、決心して3つだけ泣きながら話しかけた。病床では必死に平静を保ったけどもうそれはできなかった。

「いつもいてくれてありがとう」

「じいちゃんの孫でよかったよ」

「じいちゃんみたいに真面目に生きるからね」

めちゃくちゃ愛してるけど、愛してるとは言えなかった。

もうここ1週間くらいは目を閉じる筋力もなく、声も発せられず、かろうじて首を振って意思表示をするだけだった。見てるだけでも辛かったけど、もしも長引いてたらお互いに疲弊して感謝も悲しさも別のものになっていたかも知れない。それを考えると、いい形の最後だ。

介護も闘病もすっ飛ばして割とポックリとじいちゃんは最後を迎えた。苦しまなくて良かった、痛くなくて良かった。



でも分からない。最善の最後だったなとは思うけど、ふとした瞬間や地元の夜空をを見上げた瞬間に、今この瞬間もうじいちゃんは生きてないんだなという事実がとてつもなく残酷な感覚で襲ってくる。生きるってなんだろう。身体の自由が効かなくても生きててほしかったのか?息があるだけが幸せか?

どれだけ意識を払っても、1ミリの後悔もない選択なんてないし、最適解なんて分からない。



ばあちゃんの葬式の時、顔の広かったばあちゃんの元に本当に式場の人がびっくりするくらい多くの人が集まった。私はただ圧倒されていたけど、普段家の中でボーッとした姿しか見せないじいちゃんが会食の席でマイクを渡されて、大勢の人を前に堂々と感謝を述べた後、「家内は賑やかなのが好きでしたので、ここからはどうぞ明るく思い出話で盛り上がってやってください」と言ってその場にいた人たちを引っ張った。元々九州出身で親族に酒呑みが多いのもあったけど、じいちゃんの合図でドッと盛り上がってとても楽しい宴になったのを私は忘れない。


人の一生は案外長い。死に際の印象に左右されがちだけど、死に際なんて人生のほんのほんの一部だ。


私はじいちゃんの見せてくれた素晴らしい姿勢も、いつも変わらずそこにいてくれたことも、ずっとずっと忘れない。大好きだよ。


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