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雑記

ふと、小さい頃使っていた文房具を取り出してみた。色鉛筆。12色のもの。表紙はそれらが「きれいに並べられている」。使っていた当時から、ずっと違和感だった、「その並び方」は今や何も感じなく意識に上がらないほど日常の風景に溶け込んでいた。肌色と黒の間に茶色は来ない。そういうもう今や違和感として感じなくなってしまったものは、たくさんある。今日は牡丹が美しく咲き誇っていたので、その感動を手元のデータファイルに転写しようとした。わたしは何故反射的にシャッターを切る?今感じた感動を残したいのか、それとも後から見た写真それ自体の感動を残したいのか。よく分からない。きっと、つぎこれを見たときには、写真に封じ込められたその思考回路が思い出されることだろう。人は見ているものと感じているものがあまりにも違う。思いついたとおりに書いているだけなので読み辛かったらすまない、なんとなく当たり前になったものって怖いねって話だ。この文章に伝えたいことなど、あるようでない。書いている行為自体で完結してしまっているので、改めてこねくり回したりしない。好きに切り取ってくれていい。物事は乱雑。文章という複雑なもので美しく現そうとするには、わたしには削る能力がなさ過ぎる。取捨の捨の判断スピードと質を上げる必要がある。美しいものが美しいのは周りに散らばった屑たちのおかげ、ということを、絵描きさんが筆を綺麗にするのにジーンズで拭っていたり、クッキーはくり抜かれた残りの生地までクッキーであったりするのを見て強く思ったが、そんなことよりわたしは寝るのだ、美しい睡眠のための、寝る前の乱雑な文章。文章をきれいにするには、生活が乱雑でなければいけない。

どうも〜