今思えば、周りに染まらない人だった


もうすぐ2022年も終わるので、振り返りも兼ねて、今ふっと思ったこと書いておこっかな。


私のおばあちゃんのこと。


おばあちゃんというのは、父方の祖母で、実家で足掛け25年一緒に暮らしていた人だった。



今年の3/30。
向こうに逝ってしまった。



歳は89。あとひと月で90を迎える、そんなタイミングだった。


亡くなった夫(私の祖父)は、表に出る仕事をしていたため、若い頃から家のことは全部していた人だったし、息子夫婦(私の父と母)が共働きであるため、私と弟の孫2人の実質の育ての親でもあった。


私が社会人になり、実家を出た後も、父母はまだ働いていたため、亡くなるその日まで家事をこなしていた、という元気なスーパーばあちゃんだった。



私は物心ついた頃から、一つ屋根の下でおばあちゃんと一緒に暮らしていたから、特段違和感は感じなかったけれど、おばあちゃんが亡くなった今、思い出を振り返ると、結構異端児(笑)だったんだなって思った。


私が住んでいる土地は、典型的な「ザ・田舎」。方言強め、昔ながらの価値観も根強く残る。男尊女卑、早く結婚して、子どもを産んで、一軒家を建ててこそ一人前。そういう雰囲気が漂うやや窮屈な土地だ。


今でこそ私くらいの年齢だと、もう少しそういう価値観は緩くなっている感じはあるが、それでもまだまだいろんな場面で窮屈さは感じる。


ましてや昭和1桁生まれの人たちの年代なんて、同じような価値観を持ち、右倣え右な感じだから、少しでも皆が持っている価値観の範囲から外れると、浮いた存在になってしまうと思う。


おばあちゃんもまあ、似たような価値観を持っているところもあったが、同年代の他の人とは明らかに異なるところがあった。


それは、話す時の言葉。


一切方言で喋らない。


私は仕事柄、高齢者の方と接する機会が多いため、知らず知らずのうちに、地元の方言が身につき、普段の会話でも使うようになっているレベルだ。


むしろ田舎では多少方言を使わないと、このくらいの年代の人には信頼してもらえないような節もあるから、自然と方言で話すことが増えた。


ただ、祖母は違った。


方言を話す人たちと頻繁に交流はあったが、一緒にいても全く方言は移らない。愛想よく綺麗な標準語で水が流れるように話す。また、交渉ごともそつなくこなす人で、頭のキレる人だった。


たまに私が方言で話していると、怪訝な顔をしてくるくらい。


もともと、おばあちゃんは樺太に生まれ、戦後に今の土地に移り住んだ人だった。ロシア語も喋ることができたらしい。


こちらに移り住んでからは、当時としては、高等教育を受けられる女学校に通い卒業、准看護師の免許まで取得していたと聞いた。


兄弟が多くいて、上から2番目だったおばあちゃんは、下の兄弟たちの面倒を見ながら、自分の子供も育てていた。また、自分の夫は表に出る仕事をしていたため、家のことはもちろん、夫を訪ねてくる客人の対応、近所や夫の仕事関係の人との付き合いなどもこなし、大変な苦労をしてきた。


おばあちゃんが亡くなった後に、聞いた話だが、田舎感のないおばあちゃんは、やはり一部の人からは浮いた存在に思われていたらしい。


おばあちゃん自身も、浮いた存在に思われていたことは知っていたという。


それでも、自分のスタンスを変えることはなかった。周りに染まらない人だった。


田舎で浮いた存在で居続けるのは、時としてその土地では生きていけない可能性もあり、なかなか勇気のいることだ。


それでも、おばあちゃんがスタンスを変えようとしなかったのは、周りを客観的にみる力があり、自分の置かれている立場を冷静に判断して振る舞っていたこと、それに加えて、自分自身に対する信頼感があったからだと思う。


「最終的に、どんなふうに周りから思われても、自分のことを好きでい続けてくれる人がいる、だから何があっても大丈夫」そんな信頼感があったのだと思う。


生前、おばあちゃんはこんなふうに言っていた。


「周りをよく見るんだよ。お世話になっている人や身近な人には親切にしてあげないとね。」


この思いが根底にあったから、おばあちゃんのことを愛してくれる人もいっぱいいたとおもう。


外にはなかなか出さないけど、シビアな一面も持っていたから、あまり良く思わない人もいたみたいだけど。

おばあちゃんは、「異端児」である自分を大切にし、生きていたんだと思う。

わたしは、自分らしさを見失いそうになった時、周りに染まらなかったおばあちゃんをおもいだす。


人はいろいろ言うけれど、私は私。何があっても自分のことを好きでいてくれる人は必ずいる。だから、自分らしさを大切に抱えて生きていく。

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