溺れる(短編・天使と悪魔シリーズ23話)
【天使のことが大好きすぎる悪魔と、彼に惹かれていく天使の、見た目BL小説群の23話目です。今回は18歳未満の方閲覧禁止です。(これまでの話はマガジンをご参照ください)】
いつものように男の家に招かれ、共に映画を観ているときだった。誠実な人間の恋模様を描いたその作品の中盤で、「そういう」シーンがあった。動物ではない私たち天使や、隣に座る悪魔には不要の、しかし動物には大きな意味を持つ、性行為。
どんな作品であれ恋愛を描くとなると、直接的にしろそうでないにしろ、それはほぼ必ず挿し挟まってくる。それが人間にとって単なる繁殖のためではなく、互いの愛情を確かめ合うための行為だと捉えられているからだ。スクリーンの中で、主人公とその恋人は互いへの思いを込めて触れ合い、絡み合っている。それを見ていると、あのとき、もう一世紀ほども前になるが、隣の男から与えられた感覚が蘇ってきた。知識としては頭にあったが、まさか自分の身をもって体験することになるとは思っていなかった、紛れもない快感。
だから、映画はまだ途中なのに、つい男の横顔に尋ねてしまった。
「なあ、その……前に言っていた、人間をよく知るための実験というのは、……もうしないのか」
男は、その整った顔に驚きを浮かべて私を見つめた。
「天使サマ、それはつまり、したいってことか?」
「…………っ」
あまりにあけすけな言い方に、顔が熱くなる。思わず俯いてしまった私の髪を、悪魔はそっと撫でた。
「……俺は正直言って、肉体なんてものは魂を腐らす獄だと思ってる。肉体があるから、人間は堕落するんだ。特に、俺たち霊的存在にとって、肉体なんてものは本当に、容器でしかない。お前の魂の美しさも、その容器ではとても表しきれていない」
冷たく長い指が、私の頰に触れる。そこには悪魔にはそぐわない、限りない優しさがある。
「そう思うのに、お前にあんな提案をしたのはなぜだか、分かるか」
「…………?」
私が首を傾げると、男は微笑んだ。
「そうでもしないと、お前を振り向かせられないと思ったんだよ」
「……そうだったのか」
確かに、あのときの感覚は強烈だった。目の前の悪魔を、他の悪魔とはまったく違う者として認識するようになったのは、あの行為があったからだ。人間をよく知るための実験だと称して私の身体に悪魔が施したのは、自らを私に刻み付けるための試みだった。
「でも……、アレはきっかけでしかなかったよ。アレからお前を知るごとに、私は惹かれていったんだ」
他の誰とも話したことのなかった話題に付き合ってくれたのも、私のことを心底から考えて贈り物をくれたのも、目の前の悪魔が初めてだった。こちらのリズムが狂わされ、もっと知りたいと思わされた。そして、もっと……。
男は、ちょっと困ったように切れ長の目を逸らした。黒眼の中の赤い瞳孔が、躊躇うように揺れる。
「その、きっかけに過ぎないそれを……お前は望むか? 俺は、お前がそれを望むならするし、望まないならしない。どちらにしても、喜んでな」
その言葉に、偽りはないのが分かった。悪魔なのに、この男は、私には何ひとつ偽らないのだ。
天使よりよほど人間を理解している悪魔は、きっとそんな感覚、もう知り尽くして愉しくもないのに違いない。肉体は牢獄だと思っているくらいなのだから、それはきっと、心底からそうなのだ。しかし、それでも尚、私が望むなら、喜んで付き合ってくれると言う。
だから私も、偽りのない言葉を口にする。
「……したい。その……感覚にも、あー……興味はあるが、それは本分ではなくて……お前と、したいんだ。人間の感覚を知るためではなく、お前と、愛情と感覚を交換するために」
悪魔は目を見開き、それから嬉しそうに笑った。
「承知した」
いつもの穏やかな口付けとは違った。私の口の中を味わい尽くそうとでも言うように、悪魔の舌が動く。初めてされたときのような嫌悪感は今はない。ただ濡れた、柔らかく二股に分かれた蛇の舌の感触が、うまくできない呼吸によってぼんやりする頭には、ひたすら心地良かった。
荒い息遣いの合間に、どちらのものかもう分からない、粘着質の滴りが音を立てる。天上界の静けさとは正反対の音に、思わず耳が熱くなる。
「天使サマ……」
悪魔が、耳元に唇を寄せて囁く。その吐息の甘さと、低い声音にくらくらする。
「俺は、こんな日がくることを、ずっと夢見てたんだ」
「ん……」
耳朶から首筋にかけて優しく吸い付かれ、ぞくりとする。同時にソファに預けた上半身を後ろから支えるように大きな手が伸び、背筋をそっと撫で上げた。肩甲骨、普段は仕舞ってある羽根の付け根をくすぐられると、意志とは無関係に背がのけぞり、息が漏れる。
「肉体なんて、器に過ぎない……でも、愛する者の器は……」
男は唇で鎖骨に触れながら、熱い息とともに言葉を吐く。既にじんじんと疼き出した、本来的な機能を持たない性器を意識しながら、私は男の黒髪に指をうずめた。さらりとした冷たさが、掌の熱を逃してくれる。
「器であっても、愛おしい」
背筋を撫でていた手が、いつの間にか身体の正面に回っていた。今まで触れられたことのなかった、男の身体には不要と思える部分が、初めて与えられる刺激に粟立つ。
「な、んで……そんなとこ……」
もっと違うところに、早く触れて欲しかった。私の声音に滲む焦りに、悪魔が微かに笑った気配がした。
「人間の肉体は貪欲に出来ていてな……全身、どこでも性感帯になり得るんだぜ」
左の耳朶を舌でなぞりながら、男は私の胸の突起を、シャツ越しに、指の腹で転がした。くすぐったい、ような気もするが、普段意識したこともないような場所を、敢えて触られる違和感の方が先に立つ。
「でも、何も……」
感じない、と思った時、掠めた指先から鋭い感覚が脳裏に閃いて、思わず身を捩った。
「……っ」
何なのかも分からない感覚にどうすることも出来ず、ただ悪魔の黒い爪が突起をなぞるのを涙目で眺めた。悪魔の指は執拗に同じ箇所を往復する。
「ぁ……っ……な、何……」
「言っただろう、どこでも気持ちよくなるんだって」
「でも……これ……やっ……分か、らない……っ」
息が上がる。硬くなり始めたその小さな尖りの先を擦られると、切ないような、逃げたいような気になって頭が揺れる。
「……ふっ……んんっ……や……」
「ここは嫌か?」
悪魔は突起から指を逸らし、その周辺をそっと撫でた。しかし既に芯を持って立ち上がった私の胸の中心は敏感になっていて、直接触られていないのに、シャツとの摩擦だけで、耐え難い感覚を捉えてしまった。
「はぁ……っ、んっ……」
思わず目を瞑ると、余計に感覚が迫ってくる。悪魔が喉の奥で笑ったのが分かった。
「気持ち良いだろ。慣れれば、胸だけでイケるようになる」
イケる、という言葉の意味は……、と、混濁した思考に検索をかける。その意味するところに辿り着いて、恥ずかしさに身体が熱くなった。そこへ指先とは違う感覚が襲い、目を開くと、左胸に、男が顔を近づけていた。そのよく動く舌が、布越しに敏感な部分を柔らかく擦り上げる。
「ぁ、っ……」
二股の舌が指のように、布地に透ける、赤く染まった突起を包む。胸と直結したように焦ったさを訴える下半身が揺れ、私は内股を擦り合わせて、それに耐えた。舌が離れた、と思った直後、赤子がするようにそこを吸われ、小さく悲鳴を上げてしまった。下を触られるのとは違う、甘く切なくもどかしく、時に鋭く走る感覚に、身悶えする。
「はぁっ……はあっ……」
自分の息遣いが、耳に煩い。けれども止められるものではなく、むしろ意識すればするほど感覚は鋭く、息は荒くなる。
男は私の顔を見、にっと笑った。
「良い顔だ、天使サマ」
「……見ないで……」
快感に掻き回され、きっとだらしない顔になっているに違いない。私が両手で顔を覆おうとするのを、しかし男は止めた。
「隠さなくて良い。俺はお前の全てを愛しているんだから」
「……うん。それは、私も……」
熱で蕩けそうな頭で言うと、男は私の髪を撫で、どこか寂しそうな表情になった。
「俺と繋がるとき……、お前に、苦痛を味わわせたくないんだ。お前にはただ、快楽だけを感じていて欲しい。だから……」
悪魔は私の手を取り、自身の頰に当てた。冷たい悪魔の肌に、私の温もりが移るような錯覚。
「だから、繋がる前に……お前が、どこを触られても気持ちよくなれるようにする。苦痛なんて感じられないくらい」
空いた手が、私の胸に伸びる。少し落ち着き始めていた熱が再び灯り、私の思考は、また纏まらなくなる。
「んっ……私は……お前に与えられるなら、苦痛だって……嬉しいよ……」
「お前が苦しむのは、俺自身が許せないんだ」
俺たちが繋がるとき、お互いにどんな形の器でいるかは分からないが……、と呟き、悪魔は私の指先を口に含んだ。胸への刺激で他の部分も鋭敏になっているのか、舌が指先をなぞっただけでうっとりしてしまう。一本ずつ丁寧に吸われた後、組み合わせた指の股を擦り合わせられ、私は大きく息を吐いた。
「耳も、背も、唇も、首も、胸も、指も……もちろん他の部分も、俺が触れるだけで、……いや、お前が俺を意識するだけで、気持ちよくなれるようにしてやる」
それなら、もうとっくにそうなっている。そう言おうとした唇を、悪魔の指が塞いだ。
「いや、こんなもんじゃない」
笑う目の奥で赤く燃え上がる情念の炎が揺らめき、私の胸の底を掴む。ああ、この炎に灼かれてしまいたい。およそ天使らしからぬ思考だが、しかし、そう感じるのが、今の私だ。主に、赦しを乞う必要すらない幸福。
「……だから、繋がるのはまだ先だ、天使サマ」
残念だが、という台詞を言外に匂わせ、男は微笑む。悩ましい指先が再び動き出し、私がずっと触れて欲しくて堪らなかったところに、そろそろと伸びるのを感じた。
そうして、感覚に溺れる夜は更けていった。
翌朝、知らない寝台の上で目が覚めた。黒いシーツに黒い枕。悪魔の物だろう。まだぼんやりと靄のかかったような思考で昨晩のことを思い出し、今更ながら、顔から火が出るような心持ちになった。悪魔が言った通り、昨晩は「繋が」りはしなかったけれども、ある意味それ以上に、恥ずかしさを覚える行為の連続だった。その最後の方で、あまりの恍惚に、気を失うように眠ってしまったのだろう。
「おはよう、エンジェル」
カーテンの隙間から射し込む陽射しを背にした、黒く細いシルエットが目に入る。思わず枕に顔を伏せた私に、悪魔は面白そうに笑いながら近づいて来た。
「今になって恥ずかしくなってるのか? 可愛いな、天使サマは」
「……うう。だって、あんな……」
「まあ確かに、とても良い顔と声だったぜ。録画して毎晩眺めたいくらい」
くっくと笑う悪魔を、軽く睨む。悪魔はまだ面白そうに目を細めながら、手に持ったティーカップを差し出してくれた。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
大仰にお辞儀をして、悪魔は私の隣に腰掛けた。紅茶の香りを味わいながら、その腕にもたれる。悪魔の寝室からはビル街ではなく、緑地に溢れる公園を見下ろせることを、私は初めて知った。もうだいぶ明るくなり、休日をのんびり過ごしに来た家族連れや老夫婦、若者達で賑わい始めているのが、小さく見える。
「ふふ。お前といると、初めてのことばかりで、本当に楽しいな」
初めての感情、初めての行為、初めての感覚、初めての景色。
天使として何万年も生きてきて、まだこんなに「初めて」があるだなんて、思っても見なかった。そして、きっと、これからも。
「俺もそうさ、エンジェル」
男は、私の愛は、穏やかで澄んだ眼差しを私に向ける。
「昨晩も、ひとつ、俺の夢が叶った。お前が叶えてくれた……。ありがとう」
柔らかなキスは、紅茶とコーヒーが微かに混じり合った香りがした。
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