痛む目 「掃除婦のための手引き書」を読んで

 痛みを書ける人はすごい。そういう文章を、とりわけ私小説に近いような小説を読んだときに、そう思う。
 今、そういう小説を読んでいるところだ。ルシア・ベルリン「掃除婦のための手引き書」。最近話題になり、もう随分長い間、話題であり続けているように思う。最初の一篇を読んだときから、これは好きな部類の文章だ、とすぐに分かった。誇張した表現や麗々しい装飾はなしに、見て感じたそのままを鮮やかに抜き出したような文章。私は、そういう文章に弱い。
 見る、ということが特別に得意な人がいる。漫然と眺めるのではない、それは観察と言ってよい。
 最初の一篇は、主人公(おそらくルシア本人)が「見られる」ところから始まる。鏡越しに自分の手を見ている男の話だ。舞台となっているコインランドリーの描写は非常に詳細で、丁寧で、そこにいたから書ける文章なのではないだろうかと思う。そういう場所で、自分が「見られている」ことに気がつく主人公が、やはり相手を「見ている」のだ。ただ風景としてではなく、自分と同じように(そして全く違ったように)暮らしているひとりの人間として。
 見る、ということは、興味を持つ、ということと同義である、と私は思う。とても苦手だ。人のことをジロジロ見ることはよくないのだ、と思っていたため、私は全く習慣として、人のことを必要以上に見ないようにしている。すれ違う人のことを、車と同じようにしか見ていない。目を合わせたら失礼だと思っているから、風景の一部としてしか人を見ていない。もちろん、関わりのある人のことは風景だと思ってみてはいないが、それでも私には圧倒的に観察眼というものが足りない。見ないようにしてきたからなのか、元々、他人に興味がないからなのかは分からない。ただ、自分が人のことをしっかり見ることができていないというのは明瞭に分かっている。
 だから、ルシア・ベルリンの「見る」目はすごいと思う。
 その思いは、表題作を読んだときに確信となった。掃除婦としての仕事場である他人の家で、主人公はその家の掃除をするだけではない。そこで、人を「見ている」。そこにある家具や小物やそれらの乱雑さや匂いや空気を、それだけで片付けてしまわずに、そこに暮らす人のことを「見ている」のだ。実際に、そこに人がいるかどうかは問題ではない。暮らしぶりから立ち上る、人の生活というものを、彼女は「見ている」。そこには、その人たちへの確かな愛情がある。余計なことをするな、と説教を垂れる家の主婦の、些細な言葉ひとつで、その心に根ざす家人への情を感じる。それは、ただ仕事をこなすだけの人間には、決してできない行為だ。彼女は相手を仕事の上で関わらなくてはいけない何かだとは思っていない。ひとりの人間だと考えているのだ。私は、それだけのことに感動してしまう。
「見る」ことが得意である、とは、作中(「苦しみの殿堂」)でも書かれていた。やはり、と私は思った。それは、彼女が苦しめられた母親から受け継いだものである、ということだった。その母親の苦しみも、同じ作品に、丁寧すぎるほど丁寧に書かれている。痛みに満ちた記憶。その痛みを、拾い上げるのではなくまさに目の前に繰り広げるようにして、彼女は描く。
 記憶を反芻する、という行為を、私はほとんどしない。記憶力というものが悪いからだと思っていたが、それはむしろ反芻しないから記憶に何も残っていないのだと、最近は思う。反芻しようと思えるような経験があまりないし、過去のことを思い出す、ということに意味を見出せない。だが世界には、記憶を反芻し、咀嚼し直し、そうすることでしかそれを飲み下すことができず、そうすることでしか生きていけない人がいるのだろう。私のように丸呑みして消化してしまうのではなく。
 文章にする、ということは、自分の中の混沌を客観的に捉え直すということだ。記憶の反芻と咀嚼、文章として自らの感覚や見てきた世界を構成し直すことで、大きすぎる苦しみを、どうにか飲み込みやすい錠剤の形に整えるのだ。生きるために文章を書いている人というのは、きっと、そういうやり方でどうにかバランスを取っているのではないかと、勝手に思っている。
「見る」ことは、特にそれを無意識で行ってしまう人には、ときに苦しみをもたらすものだろうと思う。なぜならその目は、他人だけでなく自分にも向くものだからだ。見ずに済ましてしまえないから、敏感で繊細な神経は余計に苦しむ。それは世界に対して正直で、なんと素晴らしいことだろうと、私のようにものを見ない人間は思ってしまうが、そんなものではないのだろう。
 だから、そういう稀な目を持って、苦しむ心を抱えた人が、文章を書く才能に恵まれていたという事実に、私は安堵する。少なくとも書いている間は、世界の解釈と再構成をしている間は、その見えすぎる目が新たな痛みに苛まれるということは、なかっただろうと思うから。

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