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「自己」の連続性について考えたこと(京大人文学部オンライン講義を聞いての感想)

 今日から京都大学人文学部によるオンライン講義が行われると聞いて、早速拝聴しました。

 午前中には環境学、午後には哲学というラインナップで、自分が専門に学んできた分野以外の話を聴くのが好きな私には、楽しい時間でした。とりわけ哲学の講義は「自己」とは何か、という正に哲学的な内容で、私も時折考えることのある「自己の連続性」に言及していて、とても興味深かったです。そこで、講義を聴いて考えたことをTwitterで呟いたので、自分で振り返るためにもまとめておこうと思います。

講義の概要
① 「自己」とは何かという問題に言及してきた哲学者は数多おり、その考え方も多岐に渡る。
② デカルトは「自己とは活動の主体となる『私』であり、疑いようなく存在している」と考えた。しかしヒュームは「自己とは単なる『知覚の束』に過ぎず、ただの信念である」という考えを持っていた。
③ 講義を行った教授(出口康夫先生)は、「「自己」とは『我々』である」という価値観の提案を行おうとしている。

(聴講しながら書いたノートを見て簡単にまとめましたが、詳細を知りたい人は講義がアーカイブされるらしいので、そちらをチェックしてください)

 以上の講義を聴いて考えたことが、以下のツイートです。主に「自己の連続性」について呟いております。

 最後の方で出てきた作品に関しては、私の解釈では、という話ということで、ご了承ください。

 今のところ、私にとってしっくりくるのは、「自己」に連続性は無く、あるように見えているだけで、それは「記憶」によって担保されている、という考え方です。非常に忘れっぽい私にとってはかなり厳しい話になってきますが(笑)、ツイート内にもあるように、記憶の中には身体的なものもありますし、忘れた記憶が無に帰すかと言うとそうではないだろうと思うので(記憶に関しては図書館で本を借りたりして勉強中です……コロナによって数ヶ月中断していますが)……。

 講義自体はまだまだ続くということなので、これからどのような話を聴けるのか、今から楽しみです。それではここまでお読みくださってありがとうございました。良い時間をお過ごしください。

いただいたサポートは、私の血となり肉となるでしょう。