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原動力になるもの。

アート講師という活動を始めてまだ6年。
臨床美術士という資格を取得してから、本格的に活動を開始しました。

学生時代
私はもともと美大の工芸科で
テキスタイルデザイン(織)を専攻していました。

大学卒業後はそれを活かすこともなく、
憧れていたスタイリストの養成所のようなところへ通い出すも
現実はそう甘くなく、縦社会の洗礼を浴びるもそれを乗り越える度量もなく、それまでずっと学校という組織に守られていただけに
社会の厳しさを知らず、自分の勝手に思い描いていた理想との間で揺れ、
簡単にその夢を諦めてしまったのでした。

もし今、あの頃の自分に声をかけてあげれるとしたなら
『続けないと分からないことや、見えない世界、出会えない人たちがきっといるから、もう少し自分なりにがんばってみて』です。

石の上にも三年。という諺が時代に合っていないとか
昭和の考え方だという人もいるけれど、
時代でカテゴライズすることではなく、本当にそれはそうなのだと
自分の経験上思います。
その後、販売員として百貨店に勤めながら趣味で制作していたニットや、アクセサリーを都内の雑貨店で扱っていただいたり、そういう制作活動だけは地道に続けていました。

販売員時代
販売員としての仕事はやり甲斐があり、
当時はそのブランドに携われることが誇りでしたし、
ラグジュアリーブランドであるが故に、自分自身に自信がない私がその一部であるような錯覚に浸りながら日々を過ごしていました。

販売員二人で、平場でひと月で一千万円売り上げた時には泣くほど嬉しかったですし、閉店後、館の電気が消されるまで毎日お客様へサンクスレターや
訴求のお手紙を書いたり、どうやったら商品を手に取っていただけるか、
自分が接客したお客様でも自分が担当のお客様。ではなく、自分が不在のときでも、必ずその場にいる販売員がご対応できるように、
顧客カードに似顔絵(得意)や、お話した内容やこんなものがお似合いになりそうなど色々と書き込んでシェアしたり・・
高額商品でもまたお客様に足を運んでいただくためにはどうするべきかを考えたり無我夢中でした。

実際はアルバイト雇用だったので時給も安く、
社員になんとかなりたいと必死でしたが、雇用形態よりもそのブランドに携われる喜びを大切にしていたように思います。

今、私が会社の面接などもする側の立場になって感じることは、
【他人の芝生の青さ。】というのは実際はそんなに青くなかったりするのに
それは自分が外の世界に出て、たった一人になるまでは気づかないということです。

井の中の蛙大海を知らず、されど空の青さを知る・・
ないものが欲しい。
ないものばかりにフォーカスするとそうなってしまう。
自分が転職を繰り返してきた過去があるからこそわかります。

でも大事なのは何を大切にして生きていくか。
何を大切に、魂を磨いていくか。


販売員の仕事では、当時一番キツい、苦しい、でも誰にも認めてもらえない。と感じていた時代は、今私にとっては一番色濃く残っている良い思い出であり、人としても大きく成長をさせてもらったことが事実で、
母になった今でも、あの頃一緒に頑張っていた販売員仲間たちは
なんでも話せてくだらないことで大笑いできる親友です。

大きな失敗や小さな成功を重ねて、
苦楽をした経験こそが価値なのだと実感します。

母になって
27歳で結婚。
数年なかなか子宝には恵まれず、販売員の仕事を続けていました。
子どもを授かってからも臨月になる直前まで現場で働き、
産後5年くらいは主婦でワンオペ育児に奮闘しつつ、
夫が務めていた会社から独立するタイミングで、私も経理担当としてお手伝いすることになりました。

夫とは大学生の頃からの付き合いで
私がやりたいことに本気で向き合っていない姿をずっと見てきただけに
本当にそれでいいのか、よく聞かれていました。


そんな私に転機が訪れます。

続きはまた・・・

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