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末永幸歩さん「13歳からのアート思考」見えない世界を大事に


毎回、異なるゲストの方をお迎えして繰り広げられる
オンライン上で繋がる
【しつもん×探求トーク】


ほぼほぼすべての回を聞かせてもらってるのだけど、
わたしはこのオンライントークセッションが大好き!



今回のゲストは『13歳からのアート思考』の著者、末永幸歩さんだった。


驚くほど綺麗で柔らかく、それでいて芯があるといいますか、
とにかくとても素敵な方でした。


本題のシェアに入る前に、
わたしの考えをちょろっと述べさせてもらうと、
これからの教育を考えるとき、
「アート」的な思考や表現、体験って

とってもとっても大事だと思ってるわけです。


でも、そういった「アート」的な感性を育む時期、
そういった才能がものすごく伸びていく時期は、
”13歳から”よりも”13歳まで”がものすごく重要だと思ってる。


だからこそ…というわけでもないのだけど、
ものすごくテーマにひかれたわけなのだ。


結論からいうと、
これは子供の教育はもちのろんだけど、
むしろ大人の人に、大人の方に聞いてほしい、
必要な話なんじゃないかなぁと思った。


というわけで、末永さんの【しつもん×探求トーク】回に参加した
ほやほや状態の熱い気分のまま、
こちらで胸に響いた話をシェアしたいと思う。


たんぽぽの話


「アート思考」とは?のテーマから
末永さんがまず話してくれたのがたんぽぽの話。


たんぽぽの花は、
実は黄色の花を咲かせている期間は、
たった1週間という話や

地上に見えている部分(茎、葉、花)は、
せいぜい十数センチだけど、
地下の見えていない部分(根っこ)は、
1メートルにもなること、

たんぽぽの生涯(同じ場所で生きる長さ)は、
15年にもなることを教えてくれた。


そこから、
「アート思考」にあたる部分は、
まさに花を咲かせていない間の時間であり、
「興味の種」が深く深く地中に根を伸ばし、広げる過程

なのだと教えてくれた。


とても理解しやすかった。
(末永さんのお話は本当にわかりやすかった)


文章だとうまく伝わるだろうか?
イメージしにくかったらなんとも申し訳ない。



見えてる世界と見えない世界

末永さんが伝えたかった大事なことは、
たぶん見えている世界だけを見て評価したり、判断したりするのではなく、むしろ見えない世界の過程(時間)こそ大事にしよう

ということなんじゃないかと思う。


花ではなく、根っこにフォーカスを変えてみよう

という視点。


これって、すっごく大事な視点。
すっごくすっごく大事。


目の前の子供が
ただぼーっと過ごしているように見えたとしても
その子の内側の世界はどこかに深くアクセスしてるのかもしれない。


わが子の興味が
コロコロ変わって「また~?」と感じたとしても
その子の見えない部分では、
興味と興味の新しい回路が繋がるのを待ってたりするのかもしれない。


大人だってそう。


何もできていない、
何もやってない、
何も始められてない、


そんなふうに、目に見える世界で動きがなくても、
見えていない世界では、静かに、でも確かに、
動いている、変化している。


目に見える世界に”花”が咲く時間は、むしろごくわずか。
(たんぽぽでいうと1週間)


それよりも花が咲いていない時間、
目に見えない世界で根っこを伸ばす時間の方がはるかに長い。
(たんぽぽでいうと15年間)


だとしたら、まったく焦る必要はない。
そんなふうに思えた。


末永さんの話を聞いて、
最近もんもんした日々を過ごしていた飽き性の私が
何より救われた気がした。



教師の役割


末永さんは以前は、学校で美術を教えていた先生。

現在は、大学で教職を目指す大学生に
既存の教科指導にとらわれない授業の視点を教える傍ら、
講演やワークショップなどでも引っ張りだこのご活躍。

先生時代、
同じ時間内に同じ作品をみんなで一緒に作る
というスタイルに違和感を感じ、


現在は、素材だけを準備して、
あとは自由に進めてもらうようなスタイルで
ワークショップなどされているのだそう。


現時点で末永さんが行き着いたのは、
「きっかけと畑を用意してあとは見守る」

というスタンス。


以前は、教師の役割は与える(教える)ことだと思っていたけれど、
今は手と口を出さず、いかに見守るか

だと思っていると話された末永さん。


これって、見えない世界のプロセスに重きを
置いていないとなかなか難しいことかもしれない。


そして、
どの子も必ずその子の興味の花を咲かせる日が来ることを
心から信じて、待つゆとり
も必要な気がする。


ついつい
すぐにできるようになってほしい(できなきゃいけない)
すぐに答えてほしい(答えなきゃいけない)
すぐに花を咲かせてほしい(咲かせないといけない)

と、思ってしまいがちだけど、

目に見える結果がほしいのは、
子供というより大人の方で、
それを得ることで安心したい気持ちがあるんじゃなかろうか?


大人の地図と子供の地図


最後にもうひとつ。

末永さんがご家族で伊勢神宮を訪れたときのエピソードを
話してくれたのだけど、
その話が大人と子供の感覚の違いをズバリ!といった感じで

これまたすごくよかったのでご紹介して終わりにしたい。


たとえば
その日の予定を地図に表すとすると…
大人の地図はこんなふうになる。


ホテル→伊勢神宮参拝→みんなでうどん→ホテル


こういった予定というポイントにそって、
地図上を動いていくのが大人の地図


でも、子供の地図は大人の地図とは全く違う。
(特に予定が理解できない幼児期の子)


末永さんのお子さんは1歳半。
「今日はみんなで伊勢神宮に行くよ」
と言っても理解は不可能。


だから、その子のその日の地図は、まっさらさらの状態


前もって行く予定の場所(ポイント)があるわけでなく、
連れて行かれた先でポイントに出会う。


予定(ポイント)優先の地図ではなく、
ふとしたきっかけ(出会い)によって地図ができていく。


描かれた地図にそって動くのが大人の地図だとしたら、
その都度地図ができていくのが子供の地図

ということになるのかもしれない。


末永さんのお子さんは、
とある場所であることに夢中になってしまう。


それは伊勢神宮ともみんなで食べたうどん屋さんとも
まったく関係ないもの。


道路脇の溝みたいなところに、
ひたすら石を投げて落とすことにどハマりしたらしい。


そのとき、末永さんはどうしたか?


「早くホテルに帰ろう」と抱き上げようとしても嫌がり、
もっとやらせろと抵抗するわが子。


その子にとっては、
伊勢神宮<石の投げ入れ
うどん<石の投げ入れ
ホテルでのんびり<石の投げ入れ

末永さんの話はとても素敵だった。
でも、末永さんのとった行動が正解という話でもない。


というわけで、
あえて末永さんがどうしたか?はここではお伝えせず、


「自分だったらどうするか?」


を考えてみてもらえたら嬉しいなと思う。



「いつもだったらきっとこうする」

でも、ここまで読んでみて、
「これからはこうしてみたいと思う」


そんな見えない世界の領域で変化が生まれていたとしたら、
もうそれはすんばらしいことだと思うわけです。

#筆文字えりちゃん



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