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2年2ヶ月ぶりの出張。

2年2ヶ月ぶりの出張。


行く前からその戦いは始まっていた。


出張1週間前、娘が突如39.8度の熱を出した。


(いつもは2、3日で治るから大丈夫だろう)


1歳4ヶ月になった娘は、熱はあるが元気だったので、私は出張の準備を始めていた。

翌日、翌々日も熱は下がらず、PCRを念のために受けたが陰性。


そして熱が下がって木曜に保育園に行って元気に戻ってきたと思ったら夜に発熱。

ぶり返してしまった。

夫婦で反省して、再び自宅で様子を見るが、夜は40度に近くなり、救急病院に。救急なのに1時間半も待たされ座薬だけもらって雨の中帰宅。


「キャンセルした方がいいかなあ。」

やっぱり1歳での海外渡航は無理かな、、、と諦めかけたが翌日少し回復し始め、旦那とまた相談し、「行った方がいいよ」という声をかけてもらい、いざ成田へ。

(翌日娘は精密検査をして今は元気になっている)


不安と共にフライトし、怒涛の一週間出張が始まった。

自社工場のみんなもそうだが、特にマネジメントのみんなはコロナ禍での工場運営に本当に疲弊していた。日本の状況に完全に合わせた生産の組み替えは、本気で自社工場じゃなければできなかった。


涙を流しながら2年間を振り返る仲間に、私自身とても反省がある。

なんとか新作を打ち出さなければならないって、必死で、次から次に高いハードルを掲げ、見事に工場は乗り越えたが、それを讃える時間はあまりにも少なかった。


だから、出張中は様々な角度で、様々なMTGを経て、2年分の私たち、お客様からのフィードバックを届けた。

これだけみんなの前でベンガル語会議を連発したのは16年初めてだった。

最後は日本の柿の種みたいなお菓子を配布し、汗をかいて、そして涙も流して、怒涛の出張が終わった。



金曜深夜、飛行場に向かった。

マレーシア航空クアラルンプール経由の成田だ。

フライト時間は夜23時。ギリギリで飛行機の中に入り、すぐに眠りの体制に入った。

自社工場のみんなの笑顔や、みんなと話した面白い会話、そして何より、(もうすぐ娘に会える!!!)という気持ちでいっぱいだった。


と、その時、アナウンスが流れた。


「パイロットが直前の体調不良により、フライトをキャンセルします。皆様のホテルを確保し、明日の便を準備します。」


すぐにCAの一人が私に小声で話しかけた。

「直前に心臓発作になり、今救急で運ばれています。」って。


「へ・・・・・・。」


私は眠かったこともあり、頭が回らず、5分くらいかけてようやく理解できた。


(マジかよ、、、マジかよ、、、本当に?!)

様々なシナリオが頭が駆け巡ったが、すぐに現れた問題点はPC R陰性証明書だ。

(確か72時間以内の陰性証明・・・・。えっとえっと、24足す24足す、、、え、次のフライトって何時だ?!)


「ねえ、次のフライトって何時?」

「明日の23時半です」

「2、、、23時半、、、夜中ですねえ。。」変に笑顔が溢れる私。


手帳に時計を書いて、針が24、また24、、私は頭がよく回りきらず、携帯ですぐにapple musicのボタンを押し 「落ち着くフィーリング音楽」をヘッドフォンでガンガンに流していた。


そうこうしていたら、そのアナウンスに激怒したベンガル人のグループがコクピットの前まで激進し、ひたすら怒りを爆発させている。

ベンガル語を聞くと、中東に行く予定で、これだと入国できないとかなんとか言っていた。


それを聞いたクルーの一人が

「では私たちの仲間が死んでもいいというんですか!救急で運ばれているんですよ今!」と怒鳴っていた。


(マジかよ、機内で喧嘩はやめてほしい。。。いいから早くsolutionをくれ・・・)


グダグダやっていると外に出てくださいと言われ、私たちは再び空港の出口まで案内された。

赤いしっかりした素材のパスカードみたいなものを渡されて、「これは明日のフライトまで確実にお持ちください」と言われた。“PASS”と書かれている。


(なるほど、これで再入国などを見分けるのだな。ふむ。)とすこし冷静になってきた。


次に「ホテルのバスが来るのでお待ちください」と言われた。

その時に、「俺たちは家に帰る!!!」と言って、数人がバラバラとそのPASSを持たずに、案内人を振り切って路上に出て行ってしまったのだ。


(・・・。彼らはPASSがなくてどうするんだろう・・・。)


もう眠さと疲れと娘に会えない寂しさで呆然としてきた。

バスがきた。しかし

(小さい・・・・・。マイクロ・・・・マイクロバスだな。。)


そんな小さな車体に我々はぎゅうぎゅう詰めになり、ホテルに向かった。

みんな車内でああだこうだと言いながら、電話をかけている。

私は(今ごろ夜泣きしているかなあ、、、)とか思いながらじっと携帯で娘の写真を見ながら思った。


(これ、飛んでいたら本当に大変な事態だったなあ・・・。飛ぶ直前なんて、、、ああ、神様、助かったなあ。ある意味で。みんなの為に、家族のために、私は死ぬわけにはいかないんだ!!!)


変なポジティブシンキングとやる気がみなぎってきて、ヘッドフォンもフィーリング音楽からエドシーランに変わっていた。

ホテルについて、再びカウンターで行列を待ち、部屋のチェックインをして鍵をもらった。


「ああ、、、これで横になれる・・・。」

部屋に入り、手を洗って、とりあえずパスポートなどを確認していた時


「あれ・・・。赤いやつ・・・。赤いやつがない・・・。PASS・・・PASS!!!」

あの硬い素材のPASSがないのだ!!!


私はなぜかここで一番焦りを感じ、チェックインカウンターに走った。


「ねえねえ、さっき私パスポートと一緒に赤い、硬いやつ、PASSをさ、挟んでいなかった?!」とむちゃくちゃテンパりながら質問した。


「ああ、君のだったのか!ここにあったやつ、さっきチェックインした前の人のものかと思い、渡してしまった・・・。」



「へ・・・だれ、それ!部屋番号は!!!」

「俺がわかる!!!」

後ろから声がした。


突如として現れた同じくキャンセルされたフライトに乗る予定だったベンガル人パッセンジャーがベンガル語でそういった。


(誰だこいつ・・・)と思ったのだが、

「あんた、わかるの!?どこに行った、私のPASS!!!」

「それを持った男はエレベーターで4階に行った!401ってカウンターで言っていた。大丈夫だ! We will catch him!!! We will find him!!!!」

なぜかパジャマみたいな変な服を着たそのおかしなベンガル人は、エレベーター内で私を両手をグーにして、満面の笑みで私を励まし続けた。

4階について、彼は言った。

「こっちだ!」

よし!私とそのベンガル人は401に走った。

そこには中国人のような顔つきの背の低い男が今、まさに部屋に入ろうとしていた。

「WAIT !!!!!」

ベンガル人は叫んだ。

中国人は無視して、鍵を開けて入ろうとしていた為、我々はWAIT!!!と言いながら猛ダッシュした。


「私のPASS !!!!!」私は叫んだ。

中国人は赤いPASSをやっぱり手にしていた。


「ha?Why? It’s my PASS」とものすごい怖い顔で言われた。

ベンガル人はすぐに「No! It’s not yours, it’s her one.」と強く言ってくれた。

頼もしい!さすが大好きだよベンガル人。
次の瞬間
「Then where is mine?!」と逆に中国人は言った。
ベンガル人はすぐに両手を広げて、「わからない」という非常におどけたジェスチャーをしたのだ。


(くそ!)と内心思いつつ、

「maybe ,,, in your bag ,,,,maybe?  can you check once again?!!! とさすがはCEO。私は落ち着いて次のアクションを促した。


中国人は眉間にシワを寄せ、怒りを表現しながらも、黒いリュックの中をガサガサ探し始めた。

数秒後・・・


「oh….. I found!」

中国人は二枚のPASSを手に持ち、初めて笑顔を私に向けた。

「oh…… then….  it’s mine….」と私は自分のPASSを手にし、勝利を収めた。


そして、今私はホテルで朝を迎えた。

パサパサのパンを提供され食べながらこの一連の、厳しい2年ぶりの出張について本当にやることがないため、記録をしている。


途上国で仕事をするには、トラブルは当たり前なのだ。それは確かに理解している。けれど2年ぶりの私にはブランクがありすぎて、産後の体力の限界もあるのだ。
出張の達成感が急速に消えつつある今、ひたすら次のフライト情報を待っている。

追伸:出張の様子はインスタグラム(eriko.mh)にて公開しています。
























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