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「幸せへのセンサー」


「幸せ」になりたいなとは思うけど、「幸せ」というのは、ある瞬間のことなのか、あるいは状態やあり方のことなのか、などと考えるときりがなくなる。

イメージとしては、お金や地位などの物質的なことではなく、気持ちや心の状態が安定していて、不安や心配なこともなく、安定していて、自分だけではなく、周りも大事にすることができることかなと浮かぶ。

自分で書いてみたけれど、最初は「幸せ」かもしれないけど、時間が経過したら、それは「幸せ」ではなくなるのかもしれない。
「幸せ」は水物なのかな。

大好きな吉本ばななさんの新刊。
表紙や装丁だけで、心がきらきらしてしまった、単純な自分。

それでも、タイミング良く、この本を読むことができて本当によかった。

今の自分は長年続けてきた仕事、勤めてきた職場に対して、今までに感じてこなかった違和感を感じていて、直感的に「このまま何もしないでいたら、自分が大事にしているものが侵食されそう」と危機感を持っているけど、そういう感情に対して、「自分がもっと頑張れば」とか「忙しくて、疲れているからマイナス感情になっているのでは」などと思っていた。

(中略)社会生活を営むにつれて、そういう、人間が本来持っているはずの感覚が不要なものとしてどんどん麻痺させられていく。
学校や会社、社会生活に順応するために、自分の感覚を無視してでも、周りの状況に合わせるようになっていく。
 その時に、「これは今の状況ではとりあえず無視させられているけれど、本来の自分の感覚ではない」ということをちゃんと意識できていればいいけれど、そうじゃないと本来持っていたはずの感覚がいつのまにか麻痺していって、しまいには反応しなくなる。
それって、生き物としてはかなりまずい状態ですよね。

幻冬舎  「幸せへのセンサー」吉本ばなな
第一章より 

上の文章を読んで、ガツンと頭を殴られたような気がした。
自分の頭の中で思考していると思っていたのに、実は感覚が麻痺させられていたのかもしれないと思うと、ホラーでもある。
結局、世間の目(なんてあるかどうかもわからない幻想かもしれない)を気にしちゃっているのかも。

自分の感覚をスルーしないで、育て直すこと。あらかじめ五感を奪われているくらいに思って、刷り込まれている価値観を自分からひとつひとつ、ひきはがしていく。
 みんな、自分の心の声をどんなに聴いていないかってことさえ、もはやわからなくなっている気がします。
 何が耐えられて、何が耐えられないか。
 何が好きで、何が嫌いか。
 人によって違うし、そういうセンサーをせっかく持って生まれてきたのに、現代に生きる私たちはそれをわざわざ取り外す訓練をしてきたわけです。その結果、生きているはずなのに、何も自分では感じられない。それが楽しいのか、嬉しいのかさえ、人に聞かないとわからなくなっている。
 そういう自分のことを自覚して、もう一度、本来の生き物としてのセンサーを取り戻していくのが、生きるってことじゃないか。軸足を自分に戻すことからしか、自分の幸せは始まらないと思うのです。

幻冬舎  「幸せへのセンサー」吉本ばなな 
第三章より

この作品は、ばななさんが今この時点での自分なりの幸せについての考え方を、参考になればとぽんっと差し出してシェアしてくれている。

そこに、「〜したほうがいい」などの強制力はなく、受け取った人の心の状態で、作品の持つ作用が変わってくるように感じた。

自分にとっては、「あ、なんかこの感覚間違いではなかったかも」と、よい気づきを得ることができた。

この作品は、Amazonのオーディブルで配信中だそうで、紙や電子で目で見る読むのもいいけど、耳で聴くとまた違った印象になり、より深く没入できそうで、本を耳で聴くことができるなんて、そういう点はいい時代かもしれない。




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