私は、朗らかなひとになりたい
近ごろ、とってもほがらかという言葉がすきだ。
意味や音はもちろん、朗らかと、一瞬読みにくいところも。
「朗らか」という言葉がすきになった
思えば、折に触れて「いい言葉だ」と感じてきた。
The chef cooks meの「適当な闇」に出てくる「刹那的に朗らかな顔して」という歌詞。そして、私が働くエンファクトリーのセレクトショップ・STYLE STOREの特集ページも。
そしてこの数日。アジカンのボーカルGotchこと後藤正文の発言がきっかけでますます好きになった。「朗らかおじさん」でぜひTwitter検索を。
「朗らか」とは?
言葉はわかったようで、わからない。伝わるようで伝わらない、伝えているようで伝わっていない。なんとなく「朗らか」を捉えていることはできているけれど、このタイミングで言語化してみたいと思う。
朗らかを因数分解していくと、因数に「許す」がでてくる。
誰かを許す、何かを許す、自分を許す。
厳しく誰かを糾弾すれば、歪みが生じる。非難したことへの後悔、されたことへの悲しみや苦しみ、そのあとに生まれる憎しみ。表に出るものはとくに辛い。朗らかは、そういった負の感情の対極にあるものだと思う。
朗らかであるために
朗らかでいられない事象を捉えたときに、「許す」を選択できるようにしなくてはいけない。
なかったことにできない感情も、許すことができれば、あったけれど今は違うよと捉えることができる。行動にうつす前に、許すことが大事だなと思う。
生まれ持ってそれができる人もいると思う。穏やかな人と表現されるのかもしれない。でも、大抵の場合なにかしらのトリガーで怒りや憎しみは生まれてしまう。今は朗らかおじさんであるゴッチもきっとそうだったのだと思う
「朗らか」であるためには、努力をしなくてはいけない。だんだんとそれがスタンダードになる。それはまでは、意識的に「朗らかであれ」と自分のなか(それは頭なのか心なのか今はわからない)で唱え意識し続けなればならない。
でも、ひとりきりで「朗らか」を保ちつづけるのはとても難しい。だから、「朗らか」でいられる状況を作りだす。
その手段は、音楽かもしれないし、お笑いかもしれないし、誰かとお話することかもしれない。いくつかの常備薬を携えておけば、私たちはいつだって「朗らか」であれる。
社会人になるまでは、自分をコントロールすることができなかった。いつもいつもくよくよしていた。
社会人になってからは、音楽というとても心強い味方を手に入れた。そして最近はお笑いが、私の毎日をさらに「朗らか」にしてくれている。
年齢を重ね、何かが変わるたびに自分の心も頭も変化していくのだろうと思う。だけれど、その「朗らか」への認知・態度は変えないでいようと思う。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?