論述はできても、言語化はできない

自分の心に浮かぶことを、言語化することが苦手だと、気づいたのは最近だった。
元々弁が立つとか、口が達者とか言われるタイプの人間だった。仕事の場でも、説明が上手だとかわかりやすいと言われる場面もあり、実際にそれを表で使う場面も多い。
しかし、何か自分の外にあるものについて語ることと、自分の心に浮かぶことを表現することは違う、ということが最近になってわかってきた。

これまでは、がむしゃらに目の前のミッションを進め、動かし、成果を上げて評価されてきた。走り抜けた先には、多くの働き人にとって宿命であろう、他人の育成や、他人を通じて成果を出すというミッションが待っていた。また組織としてありたい姿、事業として何をすべきか、を意思を持って設定し、打ち出す必要も出てきた。

これまで自分が培ってきた「勝ちパターン」を再現し、入念なリサーチを踏まえて「模範解答」を作り、それを確実に遂行しようとする。しかし、他人はこの模範解答では動かない。組織や事業としてのミッションは、単なる模範解答の前に、周りを取り巻く人たちの様々な思いや考えや、時にどろどろとした力が立ちはだかる。八方美人で、日和見の決定をしてきた自分にとっては、痛みなしには何も決められない状態。

ここで初めて、言語化の難しさに気づく。人を動かす上では、自分では感覚的に気付けたり修正できたりすることに関して、思考プロセスや背景をインストールしなければならない。また「手を動かした方が早い」も通用しない

組織や事業としての方向性を語る上でも、なんとなく自分でこうしたい、やこれは間違っているという感覚があっても、それを人に伝えることができない。無理やり人を納得させるようなバックストーリーを作り、結果として何も魅力のない(が抵抗も生まれない)案に着地する

各方面を気にするあまり、自分の気持ちが何もない、から抜け出すため、自分の気持ちを言語化する習慣をつけてみようと思う

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