【ネタバレ】『シン・エヴァンゲリオン劇場版』を見た。

 『シン・エヴァンゲリオン劇場版』を見た。どうでしょうか、これは……。いや、答えは出ている。率直に言ってしまうと、1本の映画としては見るに堪えない出来だった。まず前半の農村シーンは、意味としても単純な画面としても陳腐だな、と思った。農作業を介した他者とのコミュニケーションにより様々な感情を知っていく黒綾波と、一人川辺でうずくまっているシンジ。トウジは父になり、ケンスケも人との関わり方を上手くわきまえた大人になっている……。ここで繰り返される「成熟しろ」というメッセージはいかにも説教くさく、また、かなり保守的なもののように思える。そして演出もいわゆる庵野的な、情報を捌いていく独特のリズムは完全に抑制されていてオーソドックスであるがゆえに、特段観るべきものがあるとは感じられなかった。どんなに絶望しても人間は食事をせずにはいられないとか、それはそうなんですけど……。アスカが意味深な問いをシンジに投げ掛け、その後黒綾波が消耗して気絶するシークエンスなんかは説明的すぎて悲しくなった。そしてシンジは黒綾波を喪失して成長する、という結論もあまりに凡庸だ。

また、致命的に退屈だったのはチルドレンたちが戦艦に乗り込み、ゲンドウ・冬月に最後の戦いを挑もうと別の次元(?)に突入していってからだ。かろうじて保たれていたレイアウトの美学はあまりにも濫用されるCGによって完全に崩れ去り、一言で表すと何をやっているのかわからない。説明するつもりが一切ない専門用語と後出しの数々により、通常の戦闘シーンで重視されるどちらが勝つのかのロジックが完全に失われているため、ここの面白さは意図的に削られてるのかな、とすら思った。だから、とんでもない物量らしきものとなんだか戦っているようなのだが、もはやどうでもよくなってくる。良いところを挙げるとすると、アスカが使徒に覚醒していくところのダイナミックな作画、ミサトが最後の特攻のために髪をほどきサングラスを外していくところはシンプルに演出としてツボを抑えていて好きだった。両方とも完全にトップ2みたいだったというか、鶴巻和哉のテンションだな、と思ったが。あと冬月が本当にエヴァー(ではないがみたいなもの)に乗って戦い始めた時は結構おもしろかった。

そしてシンジとゲンドウの対話以降は、EOEを彷彿とさせる精神世界での話になっていくのだが、覚醒して大人になったシンジが各キャラクターを解放していく映像がとにかく面白くない。何しろキャラクター1人1人が何を考えているのかを順を追って長台詞で独白させるという代物で、とにかく説明・説明・説明になってしまっている。まるでセラピーのセッションを延々と見せられているようだ。また、渚司令とかの辺りも完全に考察が好きな人へのサービス以上の何かではないように思えた。ちなみに1つだけ素晴らしいシーンがあって、それは『EOE』のラストカットの浜辺で、横たわっている成長したアスカとシンジが言葉を交わすところである……(これがファンサービスでなくて何なんだ、とお思いかもしれませんが……)。

……と、見ている間中呆れてしまっていたのだが、それと同時に俺は涙を流していたし、見終わった後にはなんだか晴れやかで、でもとてもセンチメンタルな気持ちになった。いい映画を観た時とはまた違う感覚で、『アベンジャーズ エンド・ゲーム』を観た時のものに近い。あの時に思ったのは10年間追っていたキャプテン・アメリカとアイアンマンというヒーローのドラマの結論に対する技術的達成、つまりはあまりに美しく、綺麗な締めくくりを果たしたことへの感嘆だった。

『シン・エヴァンゲリオン』のどういった部分にエモーショナルなものを感じたのかと考えてみると、どうみたってこの映画が美しいからではない。むしろ、どんなに無様で美しくないものであっても、それがゆえに作り手である庵野監督の衝動、パッションが伝わってきたからに他ならない。登場人物のそれではない、作り手のパッションを映画を通して見ることは難しい。時には映画としての完成度に背を向け、それでもこうしなくてはならない、という切迫したものに導かれた演出。技術を用いればいくらでも美しく作れる作家があえて無様に作る時、その"あえて"に大きなパッションを感じてしまう。

台詞回しに余裕はなく、雰囲気は崩壊している。楽屋セットネタもTV版でやったやつだし、原画による作画演出も既視感は拭えない。そもそも終盤の展開自体が、『EOE』のセルフパロディのようですらある。しかし、自分が作り出したキャラクター達、そしてエヴァンゲリオンという作品に対する回答をただただ愚直に提示するという点について言えば『シン・エヴァンゲリオン』以上に完璧なものは存在しないと思う。全ての考察をどっちらけにするような長い説明台詞にも、過去の自作からの恥ずかしいまでの引用にも、そして新海誠作品のようなあのラストにも、すべてに「今ここでエヴァンゲリオンを俺が終わらせる」とする庵野監督のなりふり構わないパッションが詰まっている。だから、内省に縛られた『EOE』と同じくらいにエヴァンゲリオンという存在に縛られた『シン・エヴァンゲリオン』は(美しくないとしても)素晴らしい作品だった。もう庵野監督によるエヴァンゲリオンは作られないだろうし、それでいいと今は思える。

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