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自分にガッツポーズができるまで

2003年、1月16日。兵庫県神戸市に、元アスリートの父と、元CAの母との間に、3人キョウダイの末っ子として私が生まれた。7つ上の姉と5つ上の兄は、才色兼備。いつも細川家の誇りだった。そんな家族に愛された幼少期は、本当に幸せで、この家族が私の大きな誇りだった。

〜小学生時代〜

小学校に入学した私は、チャンスがあれば、自分の家族を自慢していた。それが私にとって幸せで、「恵利ちゃんの家族はすごいんだね」と言われることが、私にとっての1番の誇りだった。それは高学年になっても続いていた。そのため、友人はもちろん先生たちも私の家族について知っていた。そんな小学校時代に、ある日言われた言葉が、私にとって1番長く、辛い時期に突入するターニングポイントとなった。

「お兄ちゃん、お姉ちゃんはすごいけど、末っ子の細川は全然なんもすごくないよな、全部上2人に良いところを吸い取られたな(笑)かわいそう。」

本当に衝撃的だった。この言葉は、1回ではない。何回も言われたことがある。この言葉は、一生忘れることのない、私を最も傷つけた言葉だった。
しかし、まだ考えが幼い私は、比較することは馬鹿馬鹿しいと頭でわかっていながらも、この言葉を間に受け、私はなんの才能もない、可哀想な末っ子なんだと思っていた。

〜中学時代〜

姉と兄に続き、私は啓明学院中学校に入学した。
2015年4月。
今度こそもうキョウダイと自分でくらべたりしないぞという意気込みで、入学してすぐクラスの前でするスピーチで、自分の家族のことについて話し、私は私で頑張る、という話をした。その作戦はことごとく失敗することになるのだが。
上2人は、同じ学校だったので、先生や生徒たちはみんな私の家族について知っていた。友人も、そのスピーチのおかげで知っていた。私の意気込みや、まだ残っていた私ならできるという少しばかりの自信は、いとも簡単にはぎ取られた。
それはある人の言葉だった。


「上2人は、あんなに成績がよかったのに、細川さんはなんでそんなに点数が取れれへんのよ?」


中学時代、勉強が嫌いで大の苦手だった私に大打撃。

さらに、何人かの同級生や先輩からは、あの言葉。

「上2人に全部吸い取られたな。」

この言葉のせいで、かなり刺々しい感じの性格になったのを覚えている。何も言い返すことができないからだ。
だからとにかく自分を否定されないように、毎日張り詰めていた。

インスピレーションで入ったタッチフットボール部。マネージャーとして奮闘するも、考えが幼いせいで、ほとんどが空回り。何もうまくいかなかった。

自分を変えたかった。自分に明るい未来を切り開いてあげたかった。

2018年冬。「RUDY」という映画を観た。心が折れそうな私にとって、主人公RUDYの姿は大きな感動を与えるものだった。
そんな時、ふと浮かんだひとつの考え。

「自分にはこれしかないってことを見つけて、将来大活躍をして、自分に自信を持ったら、今までの悲しい感情が救われるんとちゃうか。」

一気に火がついた。この時から私の人生は加速し始めた。

「とにかく、英語はできなあかんよな。海外の方が夢広がりそうやし。」

という率直な考えから、Be動詞から勉強し始めた。中学3年生の時だった。
定期試験も、必死に勉強した。少しはマシになった。

そして、中学3年生の3学期。校内英語スピーチコンテスト3年生の部で2位。私にとって初めて自分の努力でもらった表彰状。本当に嬉しかった。私の中で、少しずつ、自信を取り戻した。そして自分の家族の誇りも。

2018年1月。
「勉強ええ感じや。あとは、英語使って何するかやな。」

そこまで行った私は、「海外大学留学」と検索して、暇な時見ていた。高校3年間は、アメフトに捧げる予定だったため、高校留学にはあまり興味はなかった。
そんな時ヒットしたサイトが、「アメリカの大学へ進学することについて」のものだった。自分の中に電磁波が走ったように、ビリビリっときて、私の進路これ!!!!となった。
それでも、やはりじっくり考える必要があるので、沢山情報を集めた。

「メジャー(学部)どしよかなって考えているうちは、いかん方がええわ。一旦冷静になって、アメリカの大学に行きたい気持ちだけは持っておいて、他の選択肢もちゃんと考えなあかん。」

と、いったん冷静になった(笑) 
2018年3月。そんなこんなで、中学を卒業した。

〜高校時代〜

啓明は中高一貫の学校のため、そのまま啓明学院高校に進学した。そして引き続きアメリカンフットボール部のマネージャー、そしてトレーナーとして活動を再開した。
その中で、沢山出会う怪我。中学の時より、強度が上がった高校のアメフトは、本当に怪我が多かった。
手術やリハビリで、自分の好きなアメフトが十分にできない選手たちの顔を日常的に目にしていた。

そんな中、テレビで見た、フィギュアスケーター羽生結弦選手の怪我からの復帰戦。
今まで彼の演技は見ることがなかったが、怪我をしていたのは知っていた。
そんな今までほぼ縁もゆかりもなかった彼の復帰戦。
人生最大のインスピレーションを受けた。

こんなに大きなインスピレーションを受けたのは、選手が怪我で苦しむ姿を間近で見ていたからだと思う。

私、怪我のスペシャリストになって、アスリートと怪我に向き合いたい。」

強く思った。沢山怪我に関する仕事について調べた。そこで見つけた、アメリカのアスレティックトレーナーについての記事。最先端のスポーツ医療について学べる。選手の怪我に1番に飛んで行くのはアスレティックトレーナー。

「これしかないやろ。私はこれが1番したかったんや。アメリカに行こう。」

再び、私のアメリカへの想いは大きくなった。

「私、アメリカでアスレティックトレーナーになりたいんです。やからアメリカで怪我のことについて勉強したいです。私にはどんな選択肢がありますか。」

留学エージェントに何件も電話し、何件も大阪のオフィスに行き、この志を話し情報を聞き出した。部活が終わってから走って帰って大阪に行ったこともあった。1年半ほどかけて、色んな人に情報を聞いた。会場の周りには同じ世代なんていない。留学に行きたい学生の親ばかり。親が忙しかった私は、そんな中で1人で話を聞いてた。

「1人でオフィスに来るなんて、高校生なのに偉いね。」

と、少々意味のわからない言葉もかけられた。嬉しい感情などなく、苦笑い。留学に行きたいなら、自分で足を運ぶべきじゃないのかと考えながら。

どのエージェントも、口を揃えて言った。
「その予算じゃ、現実的に留学にはいけない。アスレティックトレーナーになりたいなら大学院にも行かないといけない。本当にそれだけの予算があるのか。」

突きつけられる現実に、頭がパンクしそうになった。しかも、この時期、ちょうどアメフト部では、自分の代がちょうど3年になった時期に来ていた。3年になったプレッシャー。今年こそ勝たなきゃいけない。このチームにまだ残すべきことが沢山ある。もう誰にも甘えてはいけない。

ストレスが限界まで来ていた。

2019年12月末。母の携帯を横目で見ていた。そんな時母の画面にうつった、1通のLINE。姉からのLINEだった。

「恵利ちゃんには、留学が現実的に無理っていう話はした方がいい。」

一瞬、自分の中で時が止まった。頭が真っ白になった。ああ、本当に私はもうアメリカには行けないんや。認めたくなかったが、聞くしかなかった。

「私って、留学に行けへんねやんな。昨日、LINE見てしまった。」

翌日母に話した。涙を流しながら母は、私が現実的に留学が不可能なことを伝えた。誰も悪くない。頭ではわかっていた。

「なんで、中3の時から留学に行きたいって言ってたのに、その時に止めてくれへんかったんや。」

言ってしまった。
この言葉は完全に間違えていた。母は言えるはずがない。自分の劣等感を払い除け、自分を変えようと留学を志し、大きな憧れをアメリカに抱いていた娘に、無理なんていう言葉をかけれるわけがなかった。

そこから完全に全ての力が抜けたようだった。勉強も、部活も、もうなんでもよくなった。全部の力が抜けていた。

そんな中、この世界に、大きな黒い闇が降りかかった。

新型コロナウイルス。学校は休校。もちろん、部活もなくなった。

当然、力の抜けている私は、1ヶ月ずっと漫画を読んで過ごした。

薄々気づいていた。このままではダメだと。いつまで自分の失望をそのままにしてるんだと。

そんな中で、1つ私のこの生活を変える漫画に出会った。

「辿り着くのをやめないうちは迷子じゃない。着いたところが望んだ場所じゃなくても、そこからまたつながる道を探せばいい。
そうすればいつか必ず辿り着ける。
悩んで考えてやっと歩き出した道が、目指した場所につながってないはずがない。」

まさに辿り着くのをやめようとしていた。私は、なんて事をしでかそうとしていたのか。

「私この数ヶ月間、ほんまに何してたんや。あんなにアスレティックトレーナーになりたかったあの大きな志を、今にも捨てようとしてた。絶対私はアメリカ行かなあかん。何年かかっても。夢を叶えたい。」

 2020年4月。高校3年生になった私は、大学院留学を決めた。4年後の目標。

「大学院のアスレティックトレーニング学部に入るには、まずは医療系の単位がいるよな。日本でなんか資格取るか。看護師?医者?
日本の大学でトレーナー学部とっても、アメリカでの卒業までの年数がほぼ変わらへんねやったら、他のこと勉強した方がええやろ。」

日本の受験勉強を始めないと。

大学も継続している学校にいた私は、模試なんて受けたことがなかった。

今から勉強すれば、、、と思いながら、引かかっていた一般受験。

なぜなら、部活を最後までやり遂げるこそが私の最大の責任であり、自分の芯だった。

一般ではなく、AOでの入試を試みた。

通ったAO専門の塾で、大学に行きたい理由を書いていた時、言われた。

「なんか、大学に行きたい理由が、大学院に行くために勉強するっていう感じで。目の前のことをあまりみれてないよね。」

事実だった。なぜなら、志望理由が筋の通っていない、ブレブレな内容だったから。どれだけ自分を分析しても、どれだけ大学を深く調べても、モヤモヤした。アスレティックトレーナーという職業を見つけたとき以上に、自分を奮い立たせるものが、何か自分の興味にかするものが、無かった。

「あと4年日本にいる意味ってなんなん?」

友達電話しながら英語の勉強していたとき、ぽろっと言った言葉だった。

「こんなにブレブレなら大学なんていかん方がマシや。お金の無駄や。もっかい私、アメリカへの道を探したい。塾もやめる。」

決意をした2日後に塾を辞めた。

この時から、私の人生はゆっくりと再加速し始めた。

元々連絡をとっていた留学エージェントの方から、これまた縁があったのか、タイミング良くメールが来た。

「うちの会社に女性アスレティックトレーナーの方が入ってきてくれたんだけど、話してみますか。」

即返事をした。何か自分の人生が変わる気がした。直感。

彼女は、アメリカでヘッドトレーナーを務めていた。的確なアドバイスを沢山もらった。そこで、正直に言った。

「私、高校卒業したら、アメリカの大学でスポーツ医学について学びたいです。でも、とても大学のアメリカの学費を払う余裕はありません。」

少しうつむき気味に言う私に、彼女はハッキリ言った。

「それはあなた次第。アメリカは広い。色んな大学がある。学費はピンからキリまである。チャンスはある。しかも、アメリカへ大学からいけば、最短でアスレティックトレーナーになれる。」

と、さまざまな経路を教えてくれた。本当にアメリカのアスレティックトレーナーとして活動した実践経験があるからこそ、もらえたアドバイスが沢山あった。今まで調べたり聞いたりしていても、知らなかった情報が山ほどあり、これまでのアメリカの大学への考えが覆った。

「私、それなら家族に交渉できます。」

今まで絶望までしたアメリカ行き。

来年、アメリカに行けるかもしれない。

アスレティックトレーナーになれる。

この考えが頭によぎったとき、画面越しに彼女の目の前で涙が流れた。

彼女との話から、沢山の人に交渉した。学校の先生にも沢山話をした。

高3の時の担任の先生には、進路を沢山変えて沢山迷惑をかけた。なのに先生は、

「あなたが高1のとき、はじめてあなたがアスレティックトレーナーになりたいからアメリカに行きたいと僕に相談してきたとき、すごいと思った。そこに目をつけたのかと。頑張ってください。応援してます。」

いつも偽りのない担任の先生の言葉。

どんな時もそばにいてくれた友人たちは、

「ずっとアメリカに行きたいって言ってた想い、やっと道が開けたね。よかった。」

いつもこうやって背中を押してくれる。

家族は、

「ここまで良くやった。よく1人でここまで情報を集めて色んな大人に交渉した。頑張りなさい。」

いつも暖かい。

ここからは、自分次第。自分の努力で大学を決める。

2020年7月。
2年半の時間をかけて、アメリカの大学に進学することが決定した。

最初は何人にしか言ってなかった、アメリカへの進学のこと。その何人かは、みんな私の背中を押してくれた。


しかし、自分の中でまだみんなに言ってないことがあった。

それは、NFLにアスレティックトレーナーとして行くことだった。

「なるからには大きな夢を持ちたい。
だから、NFLのチームのアスレティックトレーナーになるんや。」

そう考えてきたものの、何か笑われる気がして、言えなかった。

2020年8月。アメフト部みんなにアメリカに行くことを話した。あの日をよく覚えている。
もちろんNFLのことなんて言わなかった。

でも彼らは、当たり前のように、気軽に言った。

「お前、やるならNFLいけよ!!!」

内心びっくりした。咄嗟に、反応をした。

「うん、NFL行くねん。目指してる。」

誰も彼らの中で、その言葉を否定した人はいなかった。

「えっちゃん頑張れよ!」

みんなの言葉は、私のちっぽけな恥ずかしさを吹き飛ばした。

そんな中、最後の秋シーズンが近づいた。だが、結果は全国大会の最初の一戦、立命館宇治高校に負けた。

本当に悔しかった。

あの選手の怪我に対して、もっとこうできた。あの時、あの選手に、もっと良い声をかけることができた。

試合中、もっと早くあの負傷に対応できた。もっと良い対応があったんじゃないか。

「なんや、私トレーナーとして未熟すぎやろ。悔しい。もっと勉強したい。もっと深く関わりたい。もっと沢山の選手を助けたい。」

引退後により一層強くなった想いは、夢を追いかける力となった。

2020年12月。
学年主任だった先生から。私も含めて3人、生徒が呼び出された。

それは先日、全校生の前で話をして欲しい人をみんなで選んだ結果の話だった。

「卒業前に、全校生の前で話をしてくれ。後輩にも、メッセージを伝えてくれ。」

こう頼まれた。同じ学年の生徒が、私を選んでくれた。だが、何を話したら良いのか、何を話せばみんなの助けになるのか。そこで、決めた。

「私が今までの人生で学んだ大切なことについて、話そうかな。」

2021年2月。

私が18年の人生で学んだ全てのことを15分に要約して話した。

・本や漫画や映画に出てくる言葉をうまく自分の人生に取り込むこと
・他人と比較するのは時間の無駄だということ。
・どんな人からも学ぶこと。
・感謝を忘れないこと
・情報を仕入れる所にはこだわること。
・実際に経験した人の話を参考にすること。
・最終目的地を見失わないこと。
・自分を大切にすること。

この演説の後、沢山の人から勇気をもらったと言われた。あなたはすごいと言われた。何人かの先生から、あの話についての感想を言ってもらった。

「君の演説中、寝てる生徒はいなかった。こんなことは普通ない。」

と、言われたこともあった。

何よりも嬉しかったのは、今まであまり話したことのなかった後輩からの言葉。

「先輩の話を聞いて、私、将来に向かってチャレンジしようと思えました。」

心が熱くなった。人生でこんなに褒められたことはなかった。自分の人生の教訓は、こんなにも人の役に立ったのかと。これまでの苦労や悔しい感情は、人の役に立ったんだと。

この時、ふと恩師の言葉を思い出した。

「あなたたちの苦労した経験は、未来に出会う同じ苦しみを抱える人の役に立つ。」

私は、身にもって感じた。この言葉の意味。これまでの悔しい思いは美化しちゃいけない。あれは良い経験だったなんて思わない。他人に比べられたあの言葉は、私を救うことなんて永遠にない。

しかし、あの経験の上に私という人間がいることも忘れてはいけない。

もう、他人と比べない。私には十分価値があることを私が1番知っている。

もう、芯をぶらさない。しかし柔軟に。この世には沢山の選択肢があることを忘れない。

2021年2月。高校卒業。

「啓明賞を受賞するもの。細川恵利。」

この学校の建学の精神を体現し、他の者の模範となった生徒に与えられる賞。
これは、同期の生徒たちが推薦で何人か選ぶ。

卒業式の厳かな雰囲気の中、スピーカーを通して私の名前がみんなに届けられた。

私にとってこの賞は、私の今までの人生が報われたものであったように思えた。自分が誇らしかった。その表彰状に書かれていた聖句。

「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む。」

こうして高校を卒業した。

実は卒業前、ある人に、

「細川、中学時代はほんまに不安やったわ。そんな奴がアメリカに行くなんて、どうかしたのかと思った。 よく考えたのか? アメリカでほんまにやってけるか不安やわ。大丈夫か?(笑)」

と言われた。数年前ならこの言葉になんて答えただろう。黙って下を向いていたのか。怒っていたのか。

実際この数年間、こんな言葉以外に、私にはキョウダイと比べられるような声はかけられていたと思う。でも、耳に入ってもこなかったし、私は私と思えるようになってから、気にもしていなかった。

久しぶりにこのような、私の過去や未来に対して嫌味を含めた言葉をかけられた。

私はあの時、こんな言葉久しぶりに言われたなと思いながら、ニヤッとした。

「過去の私がいるから今の私がいます。私は高校3年間、自分の人生のことについて誰よりもよく考えました。私はできます。やり遂げます。」

そう言い放ち、この魔の空間から出て行った。自分に誇りを持ちながら。

「よく言った自分!グッジョブ!」

自分の胸の中でガッツポーズを掲げ、この素晴らしく、狭く、美しかった啓明学院での6年間に別れを告げた。



“In this life time, you don’t have to prove nothing to nobody except yourself.”
「人生のなかで、証明なんてものは、他の誰でもない自分自身にするものなんだ」
              — Fortune “RUDY”




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