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「アケマシテオメデトーゴザイマッス!」日本一の子ども病院にいた11年前の年越しのこと(前編)

娘が生まれた2009年、生後6ヶ月で自宅で窒息して救急搬送され、12月の初めには日本一の子ども病院にたどり着き、クリスマスイブに、娘は二歳までは生きられない神経難病だと告知された。
私にとっては、それまでの人生で最悪で最も苦しい12月だったと思う。

医師は私と夫に、このまま何もしなければ、二歳まで生きられない病気だと告げた。でも「人工呼吸器をつければ、生きることができる」とも説明した。全身麻酔をかけて、気管切開する手術をするかどうか、人工呼吸器をつけて生かすかどうか。少しだけ考える猶予をくれた。ひと月。

私から産まれた一つの命だけど、私の命ではない。この小さな命をどうするかを、決めなければならないのか…。親だから。

治らない疾患に立ち向かう闘志と、一方で娘の死を冷静に捉える気持ちとが、入れ替わり立ち替わり私の心を支配して、毎日心が揺さぶられていた年末の病棟生活。

病室は四人部屋だった。
ナースステーションに最も近いその部屋は、緊急性の高い子どもの部屋で、重症部屋と呼ばれていた。付き添って寝泊まりしている親は私だけで、他の子の親御さんは夜になると帰っていった。

大晦日の夜。
いつもと変わらない消灯時間、娘を寝かしつけて、夫が帰った後、自分も細長い付き添いベッドに横になる。心はグルグルしているけど、付き添いの断眠生活の疲労から、体はすぐ意識を失ってしまう。重症部屋の夜は、同じ病室の子どもの泣き声やセンサーアラームがけたたましく鳴り続ける空間だから、細切れの睡眠しかとれない。あの当時だったからできたけれど、寝る場所じゃあないと今は思う。

確か、23時台に目が覚めて娘の様子を確認して、次に目が覚めたら新しい年に変わってるな…と思いながらまた寝たと思う。
私は、隣から聞こえる気配で目が覚めた。

お隣のベッドには、娘と同い年の男の子が寝ている。彼は「ミックスベイビー」。生まれながらに多くの疾患を体に抱えていて、既に人工呼吸器をつけていた。瞳を開けることがあったのかどうか、私は知らない。彼は、日本人の母親と明るいスリランカ人の父親の子どもだった。

そのご夫婦が年越しで面会に来たようだ。時間はもう0時を回り、新しい年になっていた。この病棟は24時間面会が許されていた。

付き添いベッドでモゾッと動いた私に向かって、スリランカ人のお父さんは、笑顔で言った。

「アケマシテオメデトーゴザイマッス!」

・・・

「あ、明けましておめでとうございます」m(__)m

私の人生の中で最も衝撃的な年越しで、今も思い出す度に面白くて笑ってしまう。人生で最も暗い気持ちで迎えるはずの年越しの瞬間が、面白い思い出になっているから、人生は不思議だ。

私は、人工呼吸器をつけているお隣さんの彼から、たくさんのことを教わった。ただ機械につながれて息をさせられている状態と思われるかもしれない彼の存在がなければ、今の私たちはないと思う。
彼は間違いなく、私と娘の命の恩人の一人だ。

面白く書くはずが、なんだか長い話になって、重い感じになってしまった。続きは後編へ。

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