わたしの子ども

 大人の短い夏休みなのにどこにも行くところがない。日頃仕事だなんだで外に出ずっぱりなので、むしろ家にいると休日だって気分。服を買いに行こうにも、どうせなら都内に出たいし、でも総武線で一本とはいえ千葉から都内に行くのも面倒なんじゃボケと思うと、まぁ仕事あるときでいっかって感じだ。

 こんなんなら実家に帰ればよかったかもしれない。ベッドに寝転がって、ツタヤで借りてきた『GANTZ』をだらだら読んで、いつのまにか寝てて、起きたら続きを読んで、ラーメンを茹でて食べて、読んで、寝て、の繰り返しで2日経った。28歳にもなってこの体たらくっぷりだよふはは。

 休み休み読んでるとはいえ、20巻を超えたあたりから頭が重くなってくる。でもここまで来たら意地で読み続ける。27巻でダヴィデ星人編が終わって、カタストロフィ編に入ろうとすると、てんとーん、とインターホンが鳴る。

 そういえばなんか頼んでたかしらん? と思って玄関を開けると、5歳くらいの男の子が立っている。

 外は暑いのに長袖で、白い肌には汗一つかいてない。知らない子だ。

 ふと、3年前に幼馴染の由香里の息子がマンションの12階にある部屋のベランダから落下して亡くなったのを思い出す。生きてたら丁度このくらいだ。

「悠斗くん?」と訊くとその子が頷くので、「暑いさけ、中入らんね」と部屋の中に入れてやる。悠斗くんは落ち着きなさそうにきょろきょろしたあと、控えめに頭を下げて口を開く。

「ういひしれ」

 なんとなく「おじゃまします」って言ったんだろうなというのが分かって、その礼儀正しさがうれしい。

 部屋に入ると悠斗くんは興味深げにあたりを見回しながら、ローテーブルの傍に大人しく座った。

「くつろいでええよ、あんま悠斗くんの好きそうな本とか無いねんけど」と言いながらとりあえずベッドのあたりに散らばった『GANTZ』を片付けて、麦茶とクッキーを出してやる。

「えぎゅいくうじ」

「ええよええよ、遠慮せんで食べね」

「るぐしゃ」

 悠斗くんが麦茶を飲み、クッキーを囓り出したのを見てほっとする。食べれるみたいだ。テレビを付けて適当に悠斗くんが退屈しなそうな番組にしてやると、彼はそのまま画面に釘付けになっててかわいい。口開いてるよ。

 引き出しから白い紙と色鉛筆を出してテーブルに広げると、悠斗くんはグーで青の鉛筆を握って紙の上をぐるぐる滑らせ始めた。線が何重にもなって青い円を作っている。

「ドラえもん?」

「ううずきに」

 違うみたいだ。分からない……。

 気がつくと陽が暮れ始めていて、悠斗くんもいるなら夕飯ちゃんと作らないとなと冷蔵庫の中身を確認する。さすが引きこもってただけあって何もない。

「悠斗くん、夕飯どうするん? ちょっと買ってくるま」

 そう声をかけると悠斗くんははっと顔を上げ、窓の外が赤くなってきているのを見て、慌てて色鉛筆を片付け始める。一緒に買い物行きたいのかなと思って見ていると、色鉛筆を全部箱に戻した悠斗くんは「ほぜまふくさり」と頭を下げて、すうっと空気に溶けるように消えてしまった。

 え、いなくなっちゃうの? と私は驚き、少々がっかりして、テーブルに残された色鉛筆の箱と青いぐるぐるの画用紙をしまいながら、まぁ悠斗くんがいないんだったら今夜もラーメン作ればいいやという気分になっている。

 一人暮らし用の小さな鍋でラーメンを煮込んでいると、さっきまで同じ部屋にいた悠斗くんのどことなく緊張している佇まいや、それでも子どもらしい間の抜けた表情が思い出されて、ついにやにやしてしまう。完全に癒されている。

かわいいなー悠斗くん。ほっぺが丸くて弾力がありそうなところとか、黒目が大きいところとか……子どもってかわいいんだな……。

 もう会えないのかなーと思いながら、次の日も引き続き漫画と睡眠を交互に摂取していると、お昼過ぎに、てんとーん、とインターホンが鳴る。開けると悠斗くんが立っている。

「また来てくれたんけ」と中に入れてやると、悠斗くんは前の日と同じように麦茶を飲み、テレビを観たりお絵かきをしたりして、それから陽が暮れ始めたころに消えていった。

 その次の日も、午前中のうちに買い物に行き、悠斗くん用のお菓子と塗り絵と夕飯の材料を買ったが、やはり夕方になるといなくなってしまう。

「なんね、悠斗くん夕飯食べていかんね」

「むうづきちり」

 遠慮してるみたいだ。子どもが気を使わなくていいのに。そういえば悠斗くんは夕方この家を出てどこに行くんだろう? やはり由香里のところに帰ってるんだろうか?

 気になってその夜、久しぶりに由香里に電話する。

「あさみ、久しぶりやねぇ。なしたんけ?」

「いやぁ、なんとなく元気しとるか気になったんよ」

「元気元気、かっちゃんだって今年も祭りの準備だなんだで体力有り余っとるさか、忙しくしとるわいね」

 けらけら笑いながら旦那くんの話をされて、なんだか本題に入りづらい……と思っていると、「悠斗がお祭り大好きだったさけ、張り切っとるんよ」と由香里の口から悠斗くんの名前が出る。

「あー……悠斗くんのことなんやけど」と私が口ごもると、由香里はなにかを察したように「悠斗がなしたんけ」と不安げに促した。

「最近悠斗くん、うちに遊びに来るんよ。昼過ぎに来て夕方には帰るさけ構わんけど、由香里にも一応言っとかなあかんと思って」

「はあ? 何言うとるげ、悠斗がなしてあさみんとこ行くんよ?」

「なしてって、遊びに来とるだけやと思うけど」

「えー……意味わからん意味わからん、ちょっと……変な気起こさんといてよ」

「変な気ってあんた……ほやけどうちはただ悠斗くんが遊びに来るさけ、お菓子あげたり遊んであげたりしとるんやんか。普通、ありがとうとかお世話になってますとか言うところじゃないんけ、なしてそんな風に」

「普通やないが」

 そう一言でわたしの言葉を遮って、由香里が電話を切る。7畳の狭い部屋の中に静寂が戻り、わたしは息を整えながら、悠斗くんは由香里のところには行っていないんだと安心する。

 悠斗くんは由香里よりもわたしを選んだんだ。実の母親よりもわたしを。

 由香里が友達のみっちゃんに相談したらしく、すぐに電話がかかってくる。

「あさみ、あんた由香里に変なこと言うのやめね」

「変なことってなんね、本当に悠斗くんがうちに来るさか」

「ほやさけ、不謹慎やって言うとるげ」

 はあ? と思う。不謹慎もなにも、うちに遊びに来るから、来てますよって報告をしたまでだ。由香里にも内緒で毎日悠斗くんと会うっていうのは、余計にやましいんじゃないか?

 そもそもみっちゃんは昔からこうなのだ。高校生のときわたしは遅刻の常習犯で、その朝も遅刻して一限が始まるぎりぎりに教室に入ると、クラスメイトたちが静まり返っていた。戸惑うわたしに、隣の席だったみっちゃんが、3組の山内くんが昨日自転車で帰る途中に事故起こして死んでしまって、各クラスで黙祷していたことを教えてくれた。それから「今日遅刻するのはちょっと」と顔をしかめた。

 とはいえわたしは当然、その顔も知らない山内くんが死んだから遅刻したわけではない。偶然の遅刻と偶然の死が重なってしまっただけで、なぜこうも軽蔑した顔をされなくてはならないのか……。みっちゃんの正義感の前では想像力など無力なのだろう。

 わたしが黙っているのをいいことに、みっちゃんが続ける。

「あのさぁ、ほんとあんたいい加減にした方がいいがいね。由香里も言わないだけで迷惑しとるま」

「由香里が? なしてよ」

「……昔から思っとったけど、あんた由香里に対抗心燃やしすぎや。そら由香里は高校のときからモテたし、結婚も早かったけど」

 アホらしい、と思って電話を切る。悠斗くんがわたしのところに来ることと、わたしの由香里への嫉妬だとかなんとかは関係がないはずだ。たとえ、由香里の旦那のかっちゃんが、わたしの元彼だとしても。

 関係ない。

 悠斗くんはわたしのところに来る。

 てんとーん、とインターホンが鳴るたびに、もうわざわざそんなことしないで直接部屋の中に入ってくればいいのに、と思うようになる。帰るときはすっと消えて行くので、その逆もできるはずだろう。

 しかし悠斗くんは毎日、インターホンを鳴らし、わたしに迎え入れられ、おじゃましますと頭を下げて部屋に入る。わたしの出した麦茶を飲み干し、塗り絵やパズルをして、夕御飯の前に帰っていく。

 悠斗くんのその他人行儀な態度が、わたしの中に少しずつ焦りを生み始める。

「この服、悠斗くんに似合うと思って買ったさけ、着てみ」

 都内の子供服ブランドの店で買ったTシャツを渡すと、悠斗くんはじっと見つめて「ひみしない」と返そうとする。

「ええよええよ、遠慮せんでね~」とわたしは強引に悠斗くんの着ている長袖のトレーナーを脱がせにかかる。悠斗くんは軽く抵抗したが、服の裾を勢いよく上に持ち上げてやると身動きがとれないのかされるがままになった。悠斗くんの真っ白く平べったい腹があらわになって、思わずそこに頬をすりよせる。ひんやりしていてすべすべで、冷房の効いた美術館にずっと放置されていた陶器みたいだ。

「いきち、ひぐつぎにぬ」

 悠斗くんが苦しそうな声を上げるので、トレーナーを脱がしてTシャツを着せてやる。腹のあたりに描かれた今流行りのキャラクターを、悠斗くんは物珍しげに眺めて笑った。

「うくつふにな~」

「ええんよ、いくらでも買ってあげるさけ、欲しいものあったら遠慮せんと言うんよ」

 次の日、相変わらず、てんとーん、とやってきた悠斗くんはそのTシャツではなくいつものトレーナーを着ていて、わたしはついカッとなるが、子ども相手だと思って落ち着く。悠斗くんがどこでTシャツを着替えたのか、わたしの買ってやったTシャツはどこにいってしまったのか気になるけれど、問い詰めずにお菓子を出してやる。

 悠斗くんは画用紙に相変わらず青いぐるぐるを描いていて、そんなにドラえもんが好きならドラえもんのオモチャでも買ってやろうかと考えていると、いつのまにかそのぐるぐるのそばに文字が書き込まれている。

 へぇ、悠斗くんいつのまにかひらがな書けるようになったんだ偉いじゃ~ん、と画用紙を覗き込み、拙い線で書かれたその短い単語を読む。

「まま」

 そういえば悠斗くんが生きていたころ、由香里は冬になるといつも青いマフラーを巻いていた。雪を降らせた鈍色の曇り空の代わりの、冴えた空色のマフラーだ。

「悠斗くん、悠斗くん、こっちに折り紙あるさけ、一緒にやらんね」

 悠斗くんが顔をあげる。わたしを見つめる黒目の中に、静かで深い穴があるのがわかる。

 関係ない。

 この子はわたしを選んでここに来た、わたしの子どもなのだ。

 わたしがキッチンに立ち新しく麦茶を注いで振り返ると、いつのまにか悠斗くんがベランダに出ていてぎょっとする。

「なしたん? 暑いさけ、中入らんね」

 声をかけても悠斗くんはベランダの柵を掴んでその間から空を見ている。呼びかけたり腕を引いたりしてもその場から動こうとしない。顔を覗き込むと悠斗くんは大きな瞳いっぱいに涙をためて、歯を食いしばっている。

 なんだかもうその懸命さがかわいい。萌える。淋しくなっちゃったのかもしれないな。

 声を押し殺して涙を流す悠斗くんをわたしは力いっぱい抱きしめる。陽当りの良いベランダは暑くて皮膚が焼けていくけれど、腕の中のこの子はとても冷たい。

 その冷たさが愛おしい。

「ふみにぐちり」

「ええんよ、悠斗、うちの子にならんね。由香里なんて忘れて、これからはうちをママって呼んだらいいげん。夕飯やって一緒に食べて、お菓子もおもちゃもいくらでも買ってやるさか、わがまま言って甘えんね。ほら、言うてみ、ママって」

 悠斗が口を開く。

「しね」

 幼い手がわたしの身体をぐっと外に押し出す。悠斗だけの力ではない、ベランダの空気全体がわたしに圧し掛かってきて、わたしの身体はベランダの柵を通り抜けて外に放り出される。

 ベランダに立つ悠斗に向かって手を伸ばすけれど、彼は静かな表情でわたしを見下ろすだけだ。

 由香里のマフラーと同じ、澄み切った青色の空がみるみる遠ざかっていき、諦めて、わたしは素直に落下することにする。死んで、悠斗と同じ世界に行こうと思う。

 結局、12階のマンションから落下した悠斗とは違って3階の安アパートの一室から落ちたわたしは病院に運ばれ、首の骨と背骨と右足の骨が折れるが一命を取り留め、2年後に目を覚ます。

 両親は泣いて喜んだが、由香里は見舞いにも来ない。

 病室は、夏は涼しく冬になると暖かい。動かない身体を持て余しながら、わたしはずっと逃した婚期について考えている。もう三十路だよ。

(8月15日 深夜 千葉県稲毛区弥生町)

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