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世界はみんな、“分からない“という不安から始まっている。

この世界はみんな「なぜこうなってるのか分からない」ということから始まっているように思う。
分からないことは不安だ。安心できない。
だから、安心するために頭を使って自分なりに辻褄を合わせていく。そうやって、思考の世界に生きるようになる。そうやって、いつの間にか「これが正しい」「これが当たり前」がひとりの人間の中に、社会の中に、できあがっていく。
そして、知らず知らずのうちに分断を生む側になっていく。無自覚にマウントを取り、ヒエラルキーを生んでいく。勝つか負けるかの世界で頑張っていく人になっていく。

そしてまた、“分からない“に留まりたくなくて、「テレビや新聞が言ってるからそういうことなのだろう」「専門家や信頼できる人が言ってるからそうなのだ」と、薄っすら感じている“分からないの不安“を辻褄を合わせるように穴埋めしていく。不安を感じたくないから、不安を感じていることさえ気づかない内に、それらを信じていく。
そうして、自分の中で自分を正当化する物語を作り上げていく。「この方がいい」「こうなってるはずだ」「これが正しいんだ」そんな物語を。
これはつまり、メディアや影響力ある人に洗脳されているとも言える。知らず知らずの内に、誰かや何かに屈している、マウントを取られていると言ってもいいかもしれない。
自分としては知識を得ているように感じているが、実際には自分で考えることをやめていっていて、自分の外側に正解や正しさを求め、自分の思考で作り上げた物語と合ってるかどうかを気にしたり確認したりするようになっている。
そうして、自分の内側をより不安でいっぱいにさせていくのだ。

そんな風に、人や世の中は流れている。

この知らぬ間に埋め込んでしまった反射的な思考・行動パターンをやめていく、つまり本当の安心を内側で感じて生きていくために、”ちゃんと観る”ということが必要なのだ。
自分の中にあるとは認めたくないものを観る。
わたしは特に、「分からない」という事実に正直になって、その分かってない自分に降参して、分かってないに居続けることが必要だった。
そうやって、始めて”事実を観る”ができていって、“自分で考える“をするようになったように思う。(まだまだ始まったばかりだけど)
そうすることで、「なぜこうなってるのか分からない」ということがどういう構造でなのかが何となく観えてくる。自分の中にあった違和感が、「あぁ、そりゃそうなるよね」と腑に落ちていく。

そうして、周りに翻弄されず、自分が存在していることへの安心感を感じて生きることができるのだと思う。
マウントを取って頑張る必要もなく、外側に正しさや正解を探す必要もない。これが、人間に与えられた本当の自由なのだろうと思う。

こういうことが起きていっているんだなーということが、最近分かってきた。

ここまでら書いてみて、改めて思うのは、「この世界は不安だらけなんだ」ということ。
ポジティブかネガティブかという話ではなく、そもそもが不安の上に生きている。何とかしようともがいている。
人間は自然との共生から離れたことで、物質的豊かさを得て自然界の脅威をほとんど感じずに安心して生きられるようになったけれど、精神的豊かさである自由や精神的な安心を失ってきているんだなと。
そんなことを想う今日この頃でした。

おしまい!

LPC(ライフパーパスコーチング)、1on1個人セッション、引き続きクライアントさん募集中です。
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