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スマホを道端に落とし、すれ違う小学生から心配される私の最近

道を歩いていたところ、ぽろっと手からスマホを落としてしまった。
地面で綺麗にスマホケースが外れハッとしていると、前から歩いて来た小学生3人組による「大丈夫ですか」の輪唱、心配してくれた。優しさよ。

大丈夫、ありがとう。
と言いながら、私は大丈夫なんだろうかと自問自答する。
彼女たちはランドセルを背負っているだけで、私より余程しっかりしていると思う。自信がある。

最近についてのあれこれ。

先日、藤井風氏のライブに行った。
彼は人間より少しだけ高い位置にいる天使のような存在だと思う。時々弾かれるピアノの音色は光っているようで、心の深い所へ真っ直ぐ届いてきた。雪の日の空気が肌からつうっと芯に染みるような届き方だった。
コロナ禍なので一つ飛ばしに配置された観客席の光景は教祖を支持する信徒を連想させた。これはだいたいどのライブに行っても思うことなのだが、今回それを特に感じた。
そもそも好きなアーティストの断片に触れることは宗教みたいなものだと思う。
そして彼は「最近わしがハマっとることは喜びにも悲しみにも執着しないこと」だと話した。
それ。同意、ほんまそれ。
少し溜めて言う辺りが、伝えようとして話していると分かるし、この人物から言葉という音で聞ける嬉しさであった。


執着が悪いとは思わない。原動力にもなるからだ。けれども多くの場合、執着は無意識に起こっている。手放したくない思いが強くなるほど感情やその対象の純粋さは失われ歪んだものになる。そうなると本来掴めるはずのものも掴めなくなってしまう。無自覚のうちにそれを発動させてしまっていることは、日常の中で悲しくも割とある。
潜在意識下で分かっているが確証のないことをいかに信頼できるか、なのだと思う。

このところは随分摩耗していた。
関心のないテキストのやり取りにすり減り、ほぼ全て切ってしまった。
それでも送られてくるそれらは私の見た目から若そうなどと軽視されているからなのだろうか。
一方でずっと待っていること、表面上で動きを見せない状況に辟易してしまう。待ちの姿勢を決め込んでいるからだろう。また期待してしまっているからだろう。期待は執着と似ていて無駄だ。
望まない動と静の対比に疲弊。
好きな物事にだけ触れていたい。

最近の大好きなもの、「僕のヒーローアカデミア」の死柄木弔。
ヒーローにはそれほど関心はないが、ヴィランである死柄木が観たくて観ているアニメ。

三次元に疲弊した私は去年の暮れからアニメを見るようになった。イラストを描いておきながら、これまで私は漫画もアニメもほとんど興味を持ってこなかった。だが「鬼滅の刃」を皮切りに、感覚的には今まで見てこなかった分見たという感じ。
現実世界とアニメの間に境界があるので気がとても楽。二次元の良さを実感すると同時に、現実だと思っている世界も本当は俯瞰して見れば然程変わらないようにも思う。

ヒロアカの死柄木弔、何より声優、内山昂輝氏の声が至高である。
「ハイキュー」の月島蛍、「ホリミヤ」の宮村伊澄、「呪術廻戦」の狗巻棘、「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」のベネディクトブルー、「鬼滅の刃」の累など、線の細い陰キャラを中心に最高なこと。
共感者をゆるく求む。

ヒロアカの死柄木の登場シーンはどれも本当に好きなのだが、割と新しいエピソード、5期23話「志村転弧:オリジン」、24話「死柄木弔:オリジン」が凄まじい。重く、暗く、辛い。そして壮大な解放。セリフ一音一音の響きが素晴らしく、軽く5回は見た。


幼少期の環境が人格を形成することを再認識させられる。その時のトラウマ、無自覚のうちに蓋をしてしまっていること、それらが成長段階や大人になってからも影響するということ。それは進もうとする度、障害となって何度も何度も立ち塞がる。
そのトラウマに気づき、向き合い、克服する時、覚醒する時、その瞬間本当の意味で自由になる。アニメの中で死柄木は全てを崩壊させる。未来なんていらないと言う。それはむしろ超今を生きていると感じ、じわじわした。
意外と私たちは過去や未来に捉われ、今を生きられていないことがあるから、良いな。

私たちがそれぞれ本来の姿に戻る時、私たちは初めから全てを持ち合わせていることを思い出すのだろう。それを体感したいし、その連鎖を見てみたい。
などとiPhoneを落とす程の頼りなさがよく言うよ。

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