たましいの、抜けたひとのように

書き出しだけでその作者に組み敷かれるような小説について。

太宰治
「おさん」
新潮文庫『ヴィヨンの妻』収録

たましいの、抜けたひとのように、足音も無く玄関から出ていきます。私はお勝手に夕食の後仕末をしながら、すっとその気配を背中に感じ、お皿を取落とすほど淋しく、思わず溜息をついて、すこし伸びあがってお勝手の格子窓から外を見ますと、かぼちゃの蔓のうねりくねってからみついている生垣に沿った小路を夫が、洗いざらしの白浴衣に細い兵児帯をぐるぐる巻きにして、夏の夕闇に浮いてふわふわ、ほとんど幽霊のような、とてもこの世に生きているものではないような、情無い悲しいうしろ姿を見せて歩いて行きます。

書き出しだけ、書き出しだけと思いつつ、ここまで引用してしもた。
ひと息に話す女の人のこれまで抑えていた胸のつかえがギンビスアスパラみたいに口からはらはら落つるよな。

「お皿を取落とすほど淋しく」
身体の心柱が落ちて、手足が冷たくなる、失望の感覚。
このとききっと、血は冷たく滾っている。

青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/card305.html

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