はじめに

好きすぎるが故近づけない、ということがないだろうか?

例えば私の場合、好きなアーティストの新譜が出たとて、もちろん喜び勇んで手には入れるものの、いざ手元に届いてもしばらくはそのパッケージを開封することはおろか、肝心なCDやレコードを再生することができない。当然そのうち再生することにはなるのだが、そこに至るまでに大変な時間を要する。対象物への好き度が強ければ強いほど、再生までに時間がかかる。愛情の深さと辿り着くまでに必要な時間は比例する。

最近で言えば「シン・エヴァンゲリオン劇場版」

熱心で敬虔な(自分で言う)ファンであるにも関わらず、公開初日に観に行くことなど私にはとてもできなかった。今作が最終作という特別なものであることも理由の一つではあるが、それだけではない。例の”好きすぎるが故近づけない”というやつだ。今作は担当番組でも紹介することを事前告知していたため、言った手前何とか観なければというある種の責任感からどうにか劇場に足を運ぶことができたが、何の負荷もなければもっと時間を要していただろう。

結果として、3/8の公開から現在に至るまでの1ヶ月余りで計5回も鑑賞することになる(隔週水曜日レディースデイには映画館にいる、という日々だった)のだから、さっさと観ればいいだけの話なのだが、これがそうもいかないのである。(我ながら、なんて面倒くさいやつ)

そういえば、イエローモンキーのブルーレイBOXも大金叩いて買ったくせに、まだ観ていない。(はよ観ろや)

この現象の理由はよくわかっている。単純に怖いからだ。近づくことによって心乱されることがわかっているから(これは予感として、もしくは本能的に理解している)そこから逃げようとする心理が働く。逃げられないことはわかっているのだが、いざ向き合った時に膨大なエネルギーを消耗することがわかっているから、こちらの心身のコンディションもベストに整える必要があるし、なかなか覚悟が決まらないという感じ。いずれ向き合わなければいけないのなら「とりあえず、ごめん。一回休憩させて」とか「なんなら一回横になるわ。あとで起こして」みたいな感じだ。(伝わるだろうか)

そこで本題だ。

今回私がお伝えしたいのは「やっと書くことにしました」ということだ。

私にとって「書く」ということも、上記の話と同様で、”好きすぎるが故”逃げてきたことだ。

これまでもブログやその他諸々で、日記のようなものや何かしらをちょこちょこと書いてはきたものの、本格的に書きたいものからは逃げてきた。それは”書くには未熟すぎる”と自分に言い訳をしてきたのだが、おそらく”怖い”から逃避してきただけのことだ。

私にとって「書く」ということは一番中途半端な気持ちで取り組めないことだった。なぜそのように感じてしまうのか、自分でもよくわからないのだが、とにかく全身全霊で取り組まなければ良いものは書けないと感じるし、書く度に髪なんてごっそり抜けてなんぼ、というか本来ならそれほど向き合ってこそ意味のあるものが書けると思っているし、片手間にさささ〜するするする〜とは書けない性分なのだ。要は私が不器用なだけなのだが、そのくせ「書く」ことが好きで、事あるごとに書かなければならない責務のようなものを感じて、実際少しずつ書いてもいた。ただ人様にお見せすることも避けてきた。(人知れず書き溜めたものは15年分以上ある)

ところがここ最近になって、いよいよ逃げてはいられないというサインが送られてくるようになった。こういうサインというのは、様々な形でもたらされる。人の口を借りて、あるいはふと目にしたものの中に。実のところこれまでもサインは送られ続けてきていたのだが、思いっきり無視をしてきた。繰り返しになるが”怖い”からだ。しかし、今回ばかりはもう逃げられない形でサインがやってきた。具体的なことはお伝えできないが、明らかにそうだ、とわかるようなことばかりだった。

つまり啓示ってやつだ。

(ここまで読んでなんかこの人こわい、と思ったそこのあなた、大丈夫です。正解です)

要するに、私にとっては「書く」ことが一番自分自身が反映できることのようだ。なので、これからは臆せず堂々と書いていきたいと思う。

放置しているHPやブログもあるので、どのような形態でまとめていくかはまだ検討中かつ手探りだが、ここnoteで書きながら一番いい形に統一していきたい。尚、驚くなかれ、note登録から2年が経過していたらしい。自分でも呆れる。さっさと書けや。

まあ簡単に言えば、重い腰をあげましたというお話。

これからよろしくお願いします。

因みに”好きすぎるが故近づけない”つまり”大切が故触れられない”このような感情に共感される方がいたら、ご一報いただきたい。




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