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「評価にとらわれずに創作をする」ために何ができるか

「評価にとらわれずに創作をする」ということについて語ろうと思う。
どうしてこの記事を書こうと思ったかというと、「評価が気になってつらいです。いいねの数を人と比べてしまいます」という相談に「評価されるように頑張ろう!」みたいな回答をする創作お助けアカウントが多いからである。
もちろん正論ではあると思う。しかし、頑張って評価される人ばかりではないよね?! そもそもこの質問をする時点でその創作者は相当頑張っているのだと思う。「楽して評価されたい!」みたいな人は逆に深刻に悩まない。
あと私より100倍くらいフォロワーのいるアカウント(誇張表現ではない)の人が「評価が少ないとへこむ……」と言っていたから評価を得れば評価が気にならなくなるわけではないと思う。ちょっとしたらくがきで100いいね行く人が評価に悩むんならもうお手上げである。
というわけで、個人的に評価にとらわれないためにやっていること、気を付けていることについて書いていこうと思う。
この記事はプロになりたい人、創作者として高みを目指したい人のために書いているのではなく、「創作を人生を豊かにしてくれる趣味としてやりたい」という人に向けて書いている。なので甘ったれたこと言っているなと思う人もいようが、そういう人はブラウザバックしてプロになりたい人向けの記事を読んでほしい。

前提として、評価が気になるのは当たり前のことである

最初に言っておきたいのは、「評価が気になるのは気になるので別にいいんじゃないか?」ということだ。
自由時間をわざわざ創作に割いて、好きなものを表現して、インターネットにアップロードしているなら、「どうせなら肯定的な反応がほしい」と思うのは当然だと思う。
自宅に引きこもって長年絵を描いたり小説を書いたりしていたヘンリー・ダーガーみたいな人も稀にはいるかもしれないが、「評価、ほしいが!?」という人が多数派だと思う。
「評価されない、悲しい……」と思っても30分後にはゲームしてゲラゲラ笑っているなら、無理に今の自分を変えようと思わなくてもいい。
ただ一日中評価のことが気になるとか、評価を気にしてうまく書けなくなったとか、評価を気にしすぎて他人に攻撃的になるとか、そういう人は「評価にとらわれない試み」をした方がいいかなと思う。

1.努力至上主義から脱却

世の中は「努力って素晴らしい。努力すれば夢は叶う」というフィクションにあふれている。しかしこの努力至上主義は、逆に自分の足を引っ張ることがあるのだ。
この努力至上主義がなぜ間違いかということと、努力至上主義から脱却する考え方を述べる。

1-1この世に才能があるということを受け入れる

どうも創作界隈では「生まれ持った創作の才能」というものを語るのがタブーのような風潮がある。でもぶっちゃけ、才能ってあるよね?
私は発達障害の治療の際に自分の知能指数を調べた。そこには自分の得意なことと苦手なことがはっきり数値化されていた。あれを見た瞬間「才能がないからできない、は甘え!」という考えを捨てた。みんな結局スタートラインは違う。
単純に「絵が上手い」「文章が上手い」という部分だけではなく、「子ども~青少年のころ創作に協力的な家族がいたか」「仕事が終わってごりごり創作できる体力があるか」というのも、自分では選べない生まれ持ったギフトと言える。
この世には神様からギフトをもらった人間が実在するのだ。それは受け入れよう。

1-2評価には運要素が絡むということを受け入れる

才能の問題をクリアしたとしても、評価には運要素が絡む。
「たまたま界隈のインフルエンサーにRTしてもらった」「たまたま時事問題に関係ある話だった」「たまたま流行りのCPやジャンルに乗れた」ということで評価がいきなりうなぎ上りになるのはよくあることである。そして運を引き寄せられないと、才能があっても評価されないことはざらにある。
突然夢要素のある話をして恐縮なんだけど、私のツイートの中で今まで一番RTが多かったのはこれである。

たまたまこれがフォロワー数の多い同人作家の目に留まり、爆発的に(当社比)RTされた。
このときは「作品よりもネタのほうがウケるんかい!」と少し落ち込んだし一時的に鍵をかけたくらいだ。
(面白がってくれたこと自体はうれしいとは思ってますよ、念のため)
今では「努力したことと評価って比例しないよな」と思えるけれど、評価の運要素を感じる事件だった。


1-3それはそれとして、才能や運がすべてではない。

「努力って報われないんですか!? じゃあ創作やめます!」という人はそれはそれでいい。世の中には創作以外の趣味はたくさんある。フットサルでもYouTube動画見るでもなんでもやってほしい。
ただ、趣味というのは「人より優れた結果を残す」ということがすべてではないのだ。
タイムが遅いのにマラソンを走っている人もいるし、負けまくっているのに草野球をしている人もいる。
むしろ、マラソンや野球が一部の才能に恵まれた人のものだったら、そこまで文化として発展しない。
創作もまた、「下手の横好き」がなんやかんや言いながら作品を上げていることによって多様性が生まれ、文化として維持されているのだと思う。
それに、特別な才能がない人が作ったものにも、心打たれる瞬間は確かにある。それは創作というものが与えてくれる奇跡だ。

1-4今の自分の全力を出して報われなかったら、それはあなたのせいじゃないよ

もちろん努力が無駄というわけではない。努力するチャンスが与えられているならしたほうがいい。

ただ、評価には運が絡むということを受け入れることによって、「今の自分の全力を出して報われなかったら私のせいではないのだ」と思うことができる。「人事を尽くして天命を待つ」というやつである。
本当にねえ、みんな十分すぎるほど頑張ってるよ。ウケないのは世の中があなたの作品に着いてこれないのが悪いんだよ。そのくらい図々しく思っていいんだって。
みんな真面目過ぎて「評価してもらえないのを世の中のせいにするのはよくない」と思いすぎている。だが、評価はそもそも自分ではコントロールできないものである。
仕事しながら、家事や育児や介護をしながら、人生に悩みながら、それでも何か作りたいと思い実行する人を、私は尊敬する。
まあプロになりたいなら天運すら味方につける必要があるとは思うが、趣味でそこまでする必要なんてないから……。



2.読者に依存しない

ふたつ目に述べるのは、「みんな読者のために必要以上にがんばり過ぎじゃない?」ということである。
もちろん見てくれる人がいないと張り合いがないのは認めるし、自分のためだけにがんばるのも限界がある。
しかし、「求められていないのに他人のために努力してしまう」人って結構いるものだ。

2-1感想がほしいと「お願い」することはできるが「強制」することはできない

感想、ほしいよな。
だがいくら「感想ほしいです」と言ったところで、送る、送らないを決めるのは読者である。
私も人に感想を送るのは好きだが、強制されるのは嫌である。ファンなら感想を送って当たり前、みたいに言われると逆にステマみたいになっちゃうし……。
感想くださいと「お願い」するのはかまわないが「強制」させることは誰にもできない。

2-2「読者のため」と無理をしてもそれに対して責任を取ってくれる人は誰もいない

私もインターネットで創作をやって長いので、とある創作者が感想や評価へのお気持ち長文をしたためたあと筆を折ってしまう……という展開を何度か経験した。
感想や評価にとらわれてしまうこと自体は同情する。だがいち読者として、できることは正直少ない。
読者としてできることは、「いいねや感想で肯定的な反応をすること、可能な限りお金を出して作品を買うこと」ぐらいしかないのだ。個人として創作者の心を救ってあげることはできない。
もしフォロイーの創作者が「読者さんのためにがんばらなきゃ」と思って無理な努力をしていても、フォロワーとしてそれに気づいてあげられる、声をかけてあげられることはほとんどない。
なぜかというと私は「その人の作品が好きなだけの他人」だからである。
筆を折る人はかわいそうだとは思う。だが筆を折ったことに対していち読者として責任を取ってあげることはできない。

2-3優しい言葉をもらっても、最後に自分を大切にできるのは自分だということを忘れるな

評価がほしい、読者に肯定されたいと無理をしたところで、その無理を理解してくれる人は少ない。
これはフォロワーが意地悪なわけでも察しが悪いわけでもなくて、他人から見てその人がどのくらい努力をしているかというのはわかりにくいものなのだと思う。
「あなた無理をしてますよ」と言ってくれるのは過労を診る医者ぐらいしかいないので、「無理をしているかもしれない」と思ったら自分でブレーキをかけなければいけない。
無理をしない決断をした結果「ジャンル移動しちゃうんですか?」「〇〇もう書かないんですか?」とか言ってくるやつもいるかもしれないが、それに対してはしらね~と思うくらいでいい。読者はわがままなのだから創作者も同じくらいわがままにならないとつり合いが取れない。
みんなご自愛しろ!


3.評価が気にならない環境を作る

ではここから「評価にとらわれない」ためにできることを話そう。
まずは環境の話から。

3-1インターネットをやめろ

大げさなタイトルにしてしまったが別にすべてのインターネットをやめる必要はない。
ただTwitterやpixivやInstagramというものは結構気楽にやめていいものである。
精神的に弱っているときは思い切って「メンタル弱ってるのでちょっと低浮上になります!リプライや感想も返せません」と言っていい。アプリもアンインストールしてしまえ!
それで「こいつ弱音吐いててかっこ悪いな」と思う人はあまりいないし、いたとしてもその人はそもそもあなたのこと好きではないから気にしなくていい。
SNSというのは承認欲求を煽るようにできているのだ。「承認欲求に振り回されてしまう……」のは環境のせいであることもある。

3-2創作に関係ない自分の長所を持っておく

「自分には創作しかないのだ」と思うとできなくなったときつらいので、創作に関係ない自分の強みを持っておこう。
私の話で例えると、私は真面目に栄養バランスのとれた食生活をしていること、無駄使いをしないところは自分の長所かなあと思う。
忙しくなったり精神的に余裕がなくなったりして、創作ができなくなったとき、この長所は自分を支えてくれる。
ちゃんとごはん食べて無駄使いしてないだけでもえらい……いつか創作ができる時期まで堪え忍ぼう……と思える。

3-3あえて身内しか見ない作品を作ってみる

この記事を読んでいる人はインターネットの大海原に作品を流している人が多いと思うが、たまには身内だけが見る作品を作ると自分の評価について考え直すきっかけになる。
ごく親しい人だけ喜んでくれる作品、というのもなかなかいいものだ。
私はたまに友人とシェアワールド企画に参加して、それに対する評価はブクマ2とかそんなものだったりするのだが、数字には見えない楽しさがある。
友人だけに配るコピー本を作ってみるのも楽しい。
親しい友人からの反応は、赤の他人とは違った意味を持つものである。

4.「他人の評価」以外の評価軸を持つ

4-1短期的な結果ではなく長期的な成長を見る

楽して絵や文章がうまくなりたいよな。私もなりたい。しかし、一部の才能あふれる人以外は、唐突に成長できない。
趣味というのは、1年2年、あるいは5年10年という長期的な単位で成長していければそれでいいのだ。
短期的な結果を追い求めると、その結果に一喜一憂するはめになる。
しかし、私は実際10年以上創作やっているから、「中二のころよりはずっと成長したな……」と思えるけど、最近創作始めた人はなかなかこの長期的視点を持つのは難しいと思う。
大人になるまで続けるとまあまあ上手くなるのでおすすめですよ。

4-2他人に依存しない目標を持つ

さきほども言ったが他人の評価というものは完全にはコントロールできない者である。
それならば、自分の力で達成できる目標も同時に設定しておくといい。
「今回は○○を書くのをがんばろう」とか「ちゃんと同人誌最後まで作るところまでやろう」とか、「通販ページ作ってから寝よう」とかでもいい。
他人の評価に関係ない目標が達成できたら、自分を褒めまくろう。


4-3自分は褒めまくるぐらいでちょうどいい

読者にとって理解のある作家くんが現れないように、作者にとって理解のある読者くんが現れることはほぼない。せいぜい気が向いたときに感想がもらえるくらいである。
だからこそ自分を褒めまくれ、甘やかせ。文章一行でも線一本でも、書いて描くならあなたはえらい。
基本的に評価を気にする人というのは自罰的なタイプが多いので、自分を甘やかすくらいでちょうどいいのである。

さいごに:すみっコぐらしを見ろ

最後におすすめの映画を紹介して終わろうと思う。「映画 すみっコぐらし 青い月夜のまほうのコ」である。

この映画を見ていたとき、自分自身の「なりたいものになれなかった」人生を振り返り、悩んでいたので、「なりたいものになれなくても、夢を追うあなたは素敵」という作品のテーマに心動かされた。
ひよこの映画が有名だけれど、テーマはこちらのほうが好き。

創作において何かを成し遂げることは素敵なことである。
しかし、何か大きなことを成し遂げられなくても、特別な人間になれなくても、頑張って生きてあがいて何か作っているだけで創作活動は尊い。
どうかそれを忘れないでほしい。

(実際評価を気にして他人に嫉妬しちゃったらどうすればいいんだよ! という話も書こうと思ったのだが、記事が長くなってきたので割愛した。機会があれば書きたい。)

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