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カウンセリングの終わり

 メンタルクリニックで月に一度受けていたカウンセリングが終了した。
担当の先生が転勤になり、担当を変更して継続するか、カウンセリング自体を終了するか選ぶよう案内があり、クリニックの通院とカウンセリングの終了を選択した。
メンタルクリニックでカウンセリングを受け、終えたのは人生で二回目だった。

カウンセリング受診の経緯

 中学生の時パニック障害と診断されたのち地元で一番大きな病院に紹介状を書いてもらい、14歳から20歳くらいまで通っていたメンタルクリニックで一回目のカウンセリングを受診した。
一日で起きている時間が少なく、社会性がない生活を心配した親に勧められたもので、その時は受けたいとも受けたくないとも意思もなく、なにかを判断する気力がなかった。

木の絵を描いたり、箱の中に動物のフィギュアを置いて箱庭を作ったり、雑誌を切り抜いてコラージュをして過ごし、作品についての質問を受け回答することから始まった。
これは最初にあまりに口数が少なかったため、作品を媒介して私の考えや頭の中のストーリーを伝えることで私のものの考え方の傾向性を確かめていたのだと思う。
頻度としては、二週間に一度の受診だった。

 中学校に行く機会が増えるにつれて、徐々に進路や友達の事を話し始め、言葉が増えると作品を作る機会が減っていった。
高校生の頃は言葉だけでカウンセリングの時間を過ごしたが、中身の濃さはあまりなかった。
というのも私がその場で話す話題を選んでおり「話をしても差し支えなさそうな話題」しか口にしなかったし、自己開示が苦手で誰かに悩んだことや感じたことをそのまま伝えることは憚られた。
進捗としては、作品を通してでしか会話ができなかった状態から、言葉で会話をやりとりするようにはなれたが、感情や思考を話題に選ぶことは意図的に避けていた状態だった。
ただ、先生から「発作が起きる前は資格試験前や体育の授業や学校行事の準備など、何かしら精神的、体力的な負担が大きいタイミング」とフィードバックを受けてはじめて「あれが疲れなのか」と自覚ができた。


人並み以下の体力で28歳まで生きてきた今は、つねに自分の体力ゲージを意識して楽をするタイミングなのか、集中しても大丈夫なタイミングなのか見極めがつくようになっている。
子どもの時は全くできておらず、なんとなく発作が起きそうな予感はあっても「ねばならない」思考にとりつかれており、強迫観念のまま発作が起きるまで休むことができなかった。
発作が起きる体に無性に腹が立ち、なんで10代なのに無理ができないのか、周りと同じだけの授業を受ける体力がないのか悔しくて折り合いがつかなかった。
折り合いがつき始めたのは、大学に入学してなんとなく苦手な先生が「僕胃がんだったんですよね。40を過ぎて病気になって、それまで楽しいこと無茶なことを散々してきたからギャップがすごかった。あなたは若いころからコントロールを強いられているから、これから慣れていくんでしょうね。」と声をかけてもらってからだ。
割と無神経なことを言われている気がしたし、ほかにも無神経で自分勝手な行動が多い先生だったので苦手なままだけれど、なんとなく自分の体を前向きに捉えられたきっかけとなった。

 二回目のカウンセリングのきっかけは前の夫と喧嘩が絶えなかったことだ。
夫に夫婦カウンセリングを勧められ、別々にカウンセリングを受けたいと希望を伝えたうえでお互い別の病院で2021年の11月にカウンセリングを受けることになった。
先生には離婚協議中であることと、2021年の12月に離婚をするか結論を出すこと、「相手の意図を勝手に汲み取って、勝手な解釈をして自分の考えや気持ちを伝えられない癖がある。自分自身の課題を解決したいので日常生活でできるように練習したい」とカウンセリングの目的を伝えていた。
すぐに先生が「12月の離婚をするかしないかの話し合いに重きを置いているかと思っていましたけど、踏み台くらいにしか思ってなくて、その先の人生に視点を向けていますよね。」と切り返してきたあと「踏み台の表現はふさわしくなかったですね」と訂正してきたので「おおよそ合っています」と答えて二人で笑ってしまい、ああこの先生はいい先生だなあと感じてカウンセリングが始まった。

二回目のカウンセリングで起こったこと

 私にとってその時期センシティブだった情報は離婚で、離婚の話をはじめからしてある状態は自己開示の基盤が整っている状態でもあった。
仕事に行けていて体調の不良もない私だったので先生も踏み込んだ話をしても大丈夫だと判断したのか、家族関係や職場関係、子どもの頃の成績などの質問が多く、家族仲が良好ではないことも早々に打ち明けた。
家族の話は一回目のカウンセリングでは避けていたことで、なにか問題が解決した後の事後報告はできたものの、今現在抱えている悩みや問題を言葉にすることは10代、20代前半の時には難しかった。
友達にさんざん離婚の相談をして鍛えられた結果なのか、いま抱えている実家の問題、前の夫との問題をすんなり整理がついた言葉で説明ができ、自分で驚いた。

 先生はまれに「自分と他人の境界線」という言葉を使った。
HSPの本でもたまに見かける表現で、他人の顔色を窺い気持ちを汲み取った結果、自分のことのように思えてしまい相手の期待に応えてしまう。
他人の気持ちや意思は他人のものと切り離せず、自分の一部と捉えて、他人の境界線を越えて自分の中に流れ込んで受け入れてしまう状態を「境界線が薄い」と表現する。
昔から境界線の薄さがあり、さらに気持ちを汲み取ってほしいという他人の甘えにかなり弱い。

 「そう判断された理由は何ですか?」と先生から何回も聞かれたことがある。
話すときの癖で結論から切り出すからで、境界線の薄さと組み合わせると「相手の意図を勝手に汲み取って、勝手な解釈をして決断し、自分の考えや気持ちを伝えられない癖がある。」と最初に掲げた目標そのままを四か月間繰り返していた。
ダメじゃんと思うが、カウンセリングの途中に、境界線の薄さについて先生はこう表現してくれた。

「境界線の薄さと言いましたが、あなたの他人の様子から状態や状況を把握して、ご自身がどう振舞えば最適なのか推し量る力は、幼少期に必要だったからこそ身に着けた適応力や生存戦略だったと思うんですよ。
ご実家では、その神経を尖らせないと過ごすことが難しかったかもしれない。
けれど、家を出た今はその精度を落としたほうがあなたの快適さに繋がる可能性がありますね。」

また、カウンセリングを最後にすると伝えた後はこうアドバイスもしてもらえた。
「他人との境界線を保つことも大事ですし、なにか判断に迷ったときは迷っている時点で相手に伝えても良いんじゃないんですか。
迷っている状態で何を伝えていいかわからないときは、迷っている事の構成を文章みたいに組み立てると性質に合うかもしれません。
情報を仕入れるときはきっと直感や感性で、情報を発信するときは理論的なタイプだと思うのですが、発信の時に整理するために結論まで考えてますよね。
その直前で発信してみれば良いですよ。」

これが実践できるときはいつになるんだと思いながら、それでも忘れてはいけないので取り急ぎメモのため、覚えている今記録しておきたい。
先生は四か月間、私に起こったことと、これから起こりうることを整理して、言葉を選んだうえで適切に伝えてくれた。

夫のカウンセリング

 実は前の夫と同系列のメンタルクリニックに通っていたことが離婚後の短い同居期間で発覚した。
カウンセリングの先生のことを話すと「いいな。俺の先生、よく眠ればだいたい解決するっていってよく眠れる漢方処方してくるんだけど」と打ち明けられてウケた。
夫はどこでもいつでも眠れる体質で、2LDKの別々の部屋で寝起きしていたが、離婚のいざこざでも眠れなさそうな気配はしなかった。
というよりトラブルがあったときは過眠をして防御態勢に入るタイプだ。
「寝付けない雰囲気なかったけど、眠れないようなことがあったの?先生に相談したから漢方を処方されてるの?」と聞いたら「いや、眠れてますって訴えても漢方出してくる」と言っていたので、今、離婚もし別の住まいで暮らしている夫がカウンセリングを継続しているかは知らないが、継続していたら面白いなと思う。
というか漢方毎日ちゃんと飲んでいたのは健気だけれど、漢方いらんと言えんのか?


幼馴染カウンセリング


 離婚協議になる前に、限られた友達に「夫とうまくいっていない。もう家に帰りたくないし、変な奴に頼る前にちゃんとした友達に頼りたい」と連絡を取って「なんでそんな状態になるまで人に言えないんだ」と叱ってきたのが幼馴染だった。
「状況を話せ」と地元の夜のカフェ、コンビニで買ったチューハイを片手に地元の神社、幼馴染の車の中といろんな場所で時間をとってもらい相談をした。
毎回「悲しいとか寂しいとかいうけど、その気持ちを旦那さんに伝えたのか?なんで言わずにして伝わると思った?お前は察するのが得意だけど他人はそうじゃないよな、みんながみんな自分と同じ特技を持っていると思うなよ。」と詰められ、私が泣きだしても特に口調や態度は変わらなかった。
「デートや新婚旅行に誘って断られて、かわいいって言ってほしくて断られて、断ることを寂しがらせると思っていない相手に寂しいを伝えるためには、必要な情報量はもっとあったはずだろ。その情報を与えずして察してほしいは甘えだろ。甘えは今まで生きてきたどの時点で身に着けたものなんだ。」と尋問され、動揺して泣いて泣いて仕方がなかったので、自分のセンシティブな情報だから打ち明けたくないなど判断ができないまま心当たりがある限り、何も情報を整理せず垂れ流したことがあった。
あの激詰幼馴染カウンセリングがあったからこそ別の人に自分の事を話せるようになった気がする。

「お前の泣き顔見ながらお前の金で飯食う会定期的にやろうぜ!!」と帰り際に元気に見送ってくれる幼馴染は、去年の夏から定期的に「生きてる?」と連絡をくれる。
「今こんな状況」と悪い報告をするとだいたい「お前の人生おもろ」と返ってくる。


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