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今こそバッハの受難曲を聴く

イースターって個人的には全然縁のないイベントだったんだけど、バッハを聴くようになってからは、この時期の過ごしかたが少しだけ変わりました。イースターというのは復活祭で、何の復活かというともちろんイエス・キリストの復活。で復活の前には受難…すなわちイエスの捕縛・裁判・磔刑があるわけで、この聖金曜日のころに決まって演奏されるのが、バッハの音楽でいうと『マタイ受難曲』『ヨハネ受難曲』になるわけですね。

わたしはまったくクリスチャンではない普通のライトな古楽ファンなので、特にそのことに対する宗教的感慨はなく、単純に季節イベントのようなものとして音楽を楽しんでいる。受難節にさまざまな場所で開催される恒例の演奏会にも何度か行っているし、コンサートを鑑賞する予定がない年も、この時期になるとじっくり腰を落ち着けて2時間なら2時間、静かに音楽に没入したくなります。キリスト教の信者ではないけど、J.S.バッハの音楽の信者ではあると思う。

ちょうど今年2020年は、ふたつの新録音が出た。ひとつは日本を代表するバッハ演奏団体、鈴木雅明氏率いるバッハ・コレギウム・ジャパンによる『マタイ受難曲』の20年ぶりの再録音、もうひとつはフィリップ・ヘレヴェッヘとコレギウム・ヴォカーレ・ヘントによる『ヨハネ受難曲』の、こちらも17年ぶり3度目の再録音。いずれもSpotifyをはじめとするサブスクでもすでに配信されていて、今年はそれらの音源を中心に聴いています。

時節柄お花見もできず、どこへも出かけられない状況ですので、せっかくならこの機会に、こういった長尺の受難曲なんかを家で聴いてみるのはいかがでしょうか。なんか長いし暗そうだし、退屈そう! と言わずに、聴いてみると意外と明るく楽しい、ポップな曲も多くてびっくりするかも。なにより往時のダンスミュージックを究めたバッハさんのことですので、ビート感の強い踊れる曲も、その裏に編み込まれた緻密なフーガに酔える曲もたくさんあります。

このスナック感覚の記事が、初めてでも受難曲聴いてみようかな、と思えるささやかなきっかけになれば。

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ここ5年で一番聴いてる『マタイ』

バッハの受難曲とは

とはいえまあ、自分のことを振り返ると確かにハードルは高かった。もともと器楽のおもしろさからバッハにハマったから、声楽曲に親しむようになったのはだいぶ経ってからだし、なかでもロ短調ミサや2大受難曲のような大曲に向き合うのに覚悟が要ったことは事実です。それまでの人生で、まったく宗教音楽と接点なかったし。

そもそも、バッハの受難曲がどういうものかというのを説明しますね。

「受難曲」(Passion)というのは、新約聖書にあるキリストが捕縛されてから十字架の上で処刑されるまでのストーリーに音楽をつけて、オラトリオ(音楽劇)風に構成したものです。バッハの場合、ドイツ語の自由詩にオーケストラと4部合唱による音楽をつけた作品で、完全な形で現存するものとしては『マタイ受難曲 BWV244』と『ヨハネ受難曲 BWV245』の2つが知られています。

この2つの作品はどちらもストーリーは概ね同じで、要するにイエスがユダの密告で無実の罪で捕縛され、不当な裁判と熱狂した民衆によって十字架刑が確定し、そしてゴルゴダの丘で死に至るまでの悲劇をかいつまんだものです。紹介されるエピソードや話のどこにウェイトを置くかがかなり異なるので、同じ題材を扱った別々の映画みたいな感じ。好みが分かれるところ。

よく全体でひとつの大曲のように言われるけど、長~い1曲2曲があるわけではなくて、実際は数分の短い曲が40曲とか68曲とかある。短いほうが『ヨハネ』でだいたいトータル2時間弱、長いほうが『マタイ』で2時間半~3時間くらいの作品です。

作品は、語り(レチタティーヴォ)・(アリア)・合唱の3つの種類の音楽を、互い違いに繰り返しながら進んでいく。語りもナレーションのようなものではなく、旋律がついているので、全部歌といえば歌ですけれども。語りがお話を進め、歌が登場人物の心情を代弁し、合唱やコラールがわれわれ…つまり聴き手であり信仰を持つ側の共感を訴える、というのがおおよその作りになっています。

にしてもやはりとっつきにくさは、肝心のストーリー・歌詞がドイツ語であるということ! 以前別の記事で書いたとおり、バッハの音楽は繰り返し聞いていれば誰にでも"わかる"ようになるというのがわたしの持論なんだけど、こればかりは詞の意味を理解しないことには、音楽だけ流していてもどうにもならない。CDなら解説と歌詞カードが付いてくるものですが、配信で初めて聞くなら「マタイ受難曲 対訳」などでググってみて、読みやすそうなものに目を通しながら聴くのがおすすめです(ドイツ語の理解や聖書の解釈を含むので、どれがいいとかは残念ながら自分には言えない…)。

バッハの受難曲とは関係ないけれど、ストーリー自体に馴染みのなかった私には、映画で大枠を把握してみるのも良かったです。メル・ギブソンが監督した映画『パッション』(2004)は、賛否あるようですがめちゃくちゃ分かりやすく、特にイメージしにくかった裁判のシーンなんかは「進研ゼミでやったやつだ!」ってなりました。映像のパワーはすごい。

『ヨハネ』と『マタイ』、それぞれに違う良さがあって、どちらを先に聴くべき、みたいなことは全然ないんですが、敢えて挙げるなら短い『ヨハネ』のほうが幾分親しみやすいかもしれません。登場人物の心の動きも明快で、合唱曲の美しさに集中できる。『マタイ』は、よく言われるようにもっと瞑想的で、物語性よりもプライベートな祈りに似たディープな表現だなとは思います。でも、キャッチーで有名なアリアもたくさんあるし、本当にどっちのほうがとかはないです。

ルネ・ヤーコプスによる『マタイ』録音のダイジェスト

受難曲はキャラソンだ!(あるいはDJミックス)

で、ここからがわたしのゆるい解釈なのですが、何年か前に映画『バーフバリ』を観たときに「これ『マタイ受難曲』じゃん!」と思ったんですね(そのことはこの記事に書いた)。

つまり、かのインド映画のなかで唐突に歌って踊り出すパートはキャラクターの心情を拡大解釈したもので、受難曲で歌われるアリアやコラールも、まさにそうした使われかたをしているからです。筋書きにぴったり寄り添う形で「感情」が音楽になっているから、アガる。受難曲を、スーパースター・イエスを主人公とするキャラクターソング集を収めた、ひとつながりのコンセプトアルバムのように捉えることは全然できると思います。

例えば、『マタイ』で最も有名な曲のうちのひとつ"Erbarme dich, mein Gott"(憐れみたまえ、わが神よ)は、イエスが捕らわれた後に、弟子のひとりペテロが師との関係性を疑われてビビってしまい「そんな人のことは知らない!」と3度も言ったあと、あるきっかけでかつて師にズバリそのことを予言されていたことを思い出し、自らの心の弱さから師を裏切ってしまったことをめちゃくちゃに後悔して泣く、というシーンの歌。レチタティーヴォによる語りがたっぷり入ったあとに、この曲が続きます。

受難曲自体がそうなのですが、「昔々イエスという人がひどい目に遭ったよ悲しいね」というだけではなくて、こういう登場人物による、いわば人間のダメさが故の過ちに対して寄り添うみたいなスタンスのキャラソンが多いんですね。あるあるネタなのだ。なのでこう、れっきとした宗教曲であるこの作品が、普遍的なエンタメ(というと敬虔なクリスチャンの方には怒られるかもしれないけど)である理由は、こうしたところにあるのだと思います。

さて、このように有名なアリアだけピックアップしていると、伝わりにくいのがバッハの受難曲のDJミックスとしての良さ。とにかく繋ぎがスムースで、全体を通してうねるようなグルーヴがあり、前の曲と同じキーで続けたり、逆に全然違うトーンの曲をドロップして劇的な展開を作ったりと、通して聴くと分かってくるDJバッハさんの技巧がふんだんに盛り込まれている。

例えば『ヨハネ』の後半いよいよ処刑というシーンで、十字架上のイエスから剥ぎ取った下着を誰のものにするかくじ引きで決めよう!というイカれた場面に、こういうハッピーでめちゃくちゃ踊れるキラーチューンを持ってくる大胆さとか、すごいと思うんですよね。しかも前後の繋ぎがなめらか。

だから、クラシックに関しては、例えば管弦楽組曲第3番からいわゆる『G線上のアリア』だけが抜き出して取り上げられがち…みたいなことも多いけれど、こと受難曲に関しては「通して聴く」というのが大事なのかなと思っています。いくら映画の名シーンが良くても、そこだけを何度も観るってことないもんね。

今こそ楽しむ受難曲

今年の聖金曜日は4月10日。例年ならば、これに合わせてさまざまな受難曲コンサートが世界各地で行われていたはずですが、残念ながら2020年シーズンはほとんど全ての公演が中止になってしまいました。

サントリーホールやミューザ川崎での公演を予定していたバッハ・コレギウム・ジャパンは、ツアー中のヨーロッパからコンサートの中止と、同時にケルンからの『ヨハネ受難曲』の新規録音セッション&無観客ライブストリーミング公演を発表しました。YouTubeでアーカイブも公開されています。

BCJの『ヨハネ』全編が公式に映像で無料公開されるのはおそらく初の機会なので、これは変な話ですが、またとないチャンスでもあります。

【4/10追記】上記のBCJの動画に公式に日本語字幕が付きました! 動画のオプションから字幕をオンにしてみてください。

オランダバッハ協会(Nederlandse Bachvereniging)は、毎年恒例のナールデンのグローテ教会での『マタイ』公演を中止しました。彼らはバッハ全曲録音プロジェクト「All Of Bach」のなかで、既に両受難曲(『ヨハネ』『マタイ』)を公開していますが、それに加えて、いくつかの名曲の抜粋を新たにYouTubeで公開しています。

『ヨハネ』で一番好きな"Ruht wohl"、泣いてしまう

また同団体コンサートマスターでありヴァイオリニスト佐藤俊介さんは、自宅からひとり6役で『マタイ』の"Erbarme dich"を演奏した動画をアップしています。すごい。

Spotifyを契約中なら、冒頭でも触れましたが、今年出たBCJの『マタイ』とヘレヴェッヘの『ヨハネ』は手放しでおすすめできます。これだけで十分に聴きごたえがある。

いろいろと大変な日々ですが、古今東西の受難曲の録音を聴き比べしていたら時間がいくらあっても足りない。わたしも金曜日には改めて、どれかひとつを選んでじっくり通して聴こうかなと思います。

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