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【665回】僕が作り出した心の世界を僕が守らなければ、誰が守るのかね

「僕には僕の責任があるんだ」
「僕は自分の勝手に作り出した人々や世界をあとに放りだして行ってしまうわけにはいかないんだ」
「ここは僕自身の世界なんだ。壁は僕自身を囲む壁で、川は僕自身の中を流れる川で、煙は僕自身を焼く煙なんだ」

村上春樹「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド 下巻」(p408)

「僕」は世界を語る。
この世界は、「僕」の中に、第3者の好奇心によって強制的に作られた世界なのだ。
それならば、「僕の責任」とは言えないのではないか?
…と思ったのだが、どうやら第3者が強制的に変化させたのは、「僕」の脳内の回路だった。

強制的に変化させられた脳内の回路は、今までたどり着けなかった「僕」の中にある「壁の中の街」の存在を示してしまった。
よって、たどりついた世界は、元々から「僕が作り出した世界」であった。
僕が作り出した世界は、僕が責任を持って、生きていくわけか。


今、僕自身の中には、心の世界がある。

精神科医の中井久夫が浮かぶ。風景構成法といい、決められた手順で描き、完成した風景から、相手の心の中を考える。

箱庭療法も浮かび上がる。

もしや、レゴで作り出される世界も。

落書きも。

即興で奏でられる、ピアノの音の羅列も。


すべて、何かの投影ではなかろうか。

もちろん…物語を創り出す文字の塊も、心だ。


僕自身の中には、壁に囲まれた街があるだろうか。

僕を責める僕と、泣きじゃくる子どもの姿をした僕。すぐには、この程度しかキャラクターが出てこない。

きっとどの自分も抱えて生きていくのだ。僕を責める僕も、僕が生み出した環境のひとつ。

確かなことは、僕が責任を放棄したら(つまり自分からこの世からいなくなれば)すべて消失するということだ。


いや、むしろ、僕が責任を放棄したら、誰かの心に負のイメージとして残ろうかもしれない。

呪いとして、僕の存在が残る可能性もある。

これはよくない。

自分が作り出した心の環境を維持していく。その責任を果たしていくための原動力とは?心の中の人物に支えられるだけで果たせるのか。孤独で可能なのか。最終的、もう限界ギリギリの部分では、自分で自分を守る、その一線は保つ。自分は無駄な存在と、自傷行為のように、自身にスティグマを植え付けない。そういうことなのか。


いや、これだよ。誰かの心にイメージが残る残らないとかではなく、自分がどうとるか。

僕が作り出した心の世界を僕が守らなければ、誰が守るのかね!


ああ、めんどくさいな。