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もう、飛ばない:38歳の決意

2年前のオマージュから始めようと思う。

2019年3月20日、38歳の誕生日の翌日の夜は新千歳空港のダイヤモンド・プレミアラウンジで迎えることになった。

どこかに置き忘れてしまったSAPICA(札幌市でしか使えないICカード)を除いて、札幌に置き忘れたものは、もうない。明日からは東京を拠点として、静岡県伊東市や茨城県ひたちなか市など、関東近郊のプロジェクトが中心の生活に戻る。

上記の記事に書いているけど、2年前、札幌と東京の二地域居住を始めるにあたって「飛ぶということ」とは何か?について考えた。その時は、「飛躍」や「科学技術」「俯瞰」を挙げていた。この言葉をヒントに、これまでの二年間とこれまでを考えていきたい。

二地域居住の始まり。「舞い上がっていた」自分。

自分が主導していた宝塚大学の入試改革が成功したこともあり、そもそも二地域居住スタート時点で田島は調子に乗っていた。それに加え、2018年春はオンラインサロン&アルファツイッタラーブームだったことも田島の行動に影響を与えた。新しい生き方や働き方が毎日のように紹介され、そしてぼくもまたそれらに少なからず刺激され「何でもできる」と信じ、アクティブに動きまくった。平日は大学の業務と北海道の各地域での案件、金曜日の夜に東京に戻り、MMM、MRS、伊東市のプロジェクト、宝塚大学でのリモートワーク、TouchDesignerなどクリエイティブコーディング、Twitterで知り合った様々な人との新規案件、木津川アート、そして月曜日の朝にまた札幌に戻って…という生活。あまりにも多くのプロジェクトを立ち上げ、あるいは巻き込まれていった。今思えば無謀でしかなく、ぼくに巻き込まれて迷惑をかけた人のことを思えば「アクティブ」なんて肯定的な言葉を使うことはできない。しかし当時は「全部やれる」と信じてしまっていたのだ。「飛ぶということ」とのメタファーで言えば、上記のようなものではなく、単純に「舞い上がっていた」のだろう。案の定、その後僕は墜落する。

失敗の連続。心と体を壊しながら走り続ける日々、と知床

夏ぐらいから徐々に齟齬が出始める。うまくいかない。新しい人たちとは勝手が違いすぎてストレスを感じ、今まで楽しくやれていた人たちとも遠隔でのやりとりで齟齬を起こす。支えるべき人を支えらない、悲しい経験もした。タスクが多く、捌き切れず、頭を整理する時間がなく、徐々に仕事のクオリティが下がる。作品構想が明確なのに、体と心が動かないという初めての現象も体験した。これまでの僕ならギリギリで対応できてたことができず「ポカ」をやらかす。プライベートでも上手くいかなくなる。心と同時に体もおかしくなっていたのだろう。白髪が増え、帯状湿疹ができていた。東京滞在時には実家で共に過ごした父には随分心配をかけた。

それでも歯を食いしばりながら、心で泣きながら、顔とツイッターでは笑い続け、全てのプロジェクトをなんとかランディングさせ、ひと段落した去年の2月に知床にフィールドワークに行った。久しぶりのゆっくりした時間であった。

久しぶりの自身との対話。「最も大切なもの」は何か?

そこで出会った人たちとゆっくりとしたコミュニケーションを楽しみつつ、知床の自然をしっかりと噛み締めつつ、自分の一年を振り返っていた。そこで、ぼくが「最も大切なもの」について、ゆっくり考えることができた。久しぶりの自分自身との対話。頭を明確に整理してものごとを考える刺激は、知床の風景や温泉と共に、とても心地よかった。

考えている中で、ぼくはぼくの「原点」を大切にしたい、ということをゆっくり、しかしはっきりと実感した。すなわち、ぼくの活動の「原点」である茨城県ひたちなか市那珂湊地区の芸術祭「みなとメディアミュージアム」であり、伊東のプロジェクトなど、ぼくの文化事業ビジネスの拠点である「一般社団法人MRS」であり、それらの源泉である、僕自身の専門性だ。これらを通して、ぼくは社会に関わっていきたいし、仮に上手くいかなかったとしても後悔はない。逆に、中途半端にコミットしてこれらがダメになる姿を想像したら身を切るように寂しく、辛かった。ぼくにとってMRSやMMMに関わることは日常であり、その時間自身が幸せな時間なのだ。言い方を変えれば、「何でもできる」自分を諦めた。諦めることは「明らかにすること」だ。決して後ろ向きではない。その代わり「できること」「やるべきこと」を追求しようと思ったのだ。その一段階がMMMの事務局制度の採用であり、田島のMMM事務局長就任だ。これはMMMの事務局として、MRSが担うというものだ。

田島の専門性とMRSをフル活用しつつ、MMMと、MMMを運営する実行委員を大切する、というものであった。問題は全くなかったとは言わないが、2019年は実行委員はとても満足度が高かった。他にも、伊東プロジェクトは役割を明確にし、企画立案までに注力する一方で、現場作業は現場に任せることで業務の効率と満足度を向上させることができた。大切なことを明確にしたことで、力を注ぐことに躊躇することはなくなった。不思議なもので、この頃になると北海道の活動も楽しく、充実し始めていった。

関わる人をもっと幸せにするためには

それでも限界はあった。今年もMMMではトラブルがあったが、これらのいくつかは、ぼくが二地域居住をしていなければ防げていたものであった。また、もう少し考える時間があればもっとやれたものも多かった。ぼくが時間をかければ、メンバーとすぐに会えって対応できるところにいれば、「やるべきこと」を大胆にやれる。僕に関わる人たちをもっと幸せにするために、やるべきことは「東京にいること」なんじゃないか。決して、「飛ぶということ」は、ぼくのやるべきことではないんじゃないか。そういうことを考えていた、去年の秋が深まる頃に、東京に戻るきっかけをいただき、北海道を去る決断を下した。2年近い滞在で大好きになっていた北海道をこのタイミングで去ることは、寂しく、辛いものではあったが、「最も大切なもの」を明確にした、ぼくにとって東京に戻る選択肢は必然であった。年明けから、たくさんの送別会をして、仲良くなった人たちに「またね!」と言い合い、3月20日の夜、新千歳空港から飛び立った。

だからもう、飛ばないことを決めた。

とは言え、表面的には変わらないとは思う。MRSの新規開拓は僕の担当。色々なところには飛ぶだろう。二年間で北海道はすっかり大好きな土地になってしまった。浦幌や夕張、名寄をはじめこれからも関わりたい。だから「あれ?もう飛ばないんじゃないの?」って言わないでほしい笑 すぐそっち行くよ。

ただ、「最も大切なもの」ははっきりと見えている。次の二年間で「飛ぶということ」は、ぼくが「やるべきこと」ではない。「やるべきこと」は、地に足をつけ、根を生やし、強靭なプラットフォームをつくること。その上で、今までの「飛ぶということ」が大好きな、ぼくには出来なかった面白くて、刺激的なことをやりたい。やりたいことは山のように頭の中にある。これからが本当に楽しみだ。

さてこの記事を書き切ったら、毎朝のスタバ作業の時間はそろそろ終わり。麻布十番の自宅に戻って、昼飯食べて、午後からまた戦おう。

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