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心と肉眼ー竹山広『空の空』(2):歌集を読む

 引き続き指示語に着目して読んでいく。

かがやきて声あぐる水この川のかの日の死者をわれは語るに
ー竹山広『空の空』(ながらみ書房、2007年)

 原爆公園に行き被爆当時の記憶をテレビカメラの前で語ったことを題材とした連作から引いた。視聴者だった前回の歌とは対照的な立場である。
「われ」の心は「かの日」、つまり1945年8月9日へ立ち帰り、かつての阿鼻叫喚や死者を見ている。しかし肉眼が捉えるのは輝きながら水音を立てている川である。そして、心と肉眼とがそれぞれに捉えたもののコントラストにより、生者である「われ」の語りでは蘇らせることのできない声へと思いを馳せる。
 ここでは、実景の川が話者の心を経由することで深い断絶の象徴へと転化されているが、もう一つ仕掛けがある。
それは「この川」が示す物理的な近距離と、「かの日」が示す時間的な遠距離が並列するシンタックスである。
このように類似形式でありながら位相の異なる句が続けざまに出てきた場合、言葉であるかぎり思考上の処理はできてしまう。だからこそ、言語空間から疎外された「われ」の身体が際立ち、過去と現在の決定的な隔たりが実感されるのだ。
これは言葉の操作ひとつの技術だが、竹山の持つ作家性ゆえに生まれる効果ではないかと考える。

気付かざるふりをしてすれちがふときひりひりと身に内心ありき/同
耳の穴に深夜綿棒を入れしかばそれよりふかき眠り至りぬ
差し出す両手を両手もて包む君がいつさいを包むおもひに

一首目、知人に気付いていないふりをしてすれ違う瞬間にわきおこる罪悪感や動揺。「ひりひり」が慣用句的でありながら、歌の中で固有の熱を帯びている。ニ首目、耳の穴に綿棒を差し入れたときに眠気がやってくる。綿棒を差し入れたよりも深いというのは、読者の具体的な感覚と部位を引き込む。三首目、君の全てを包もうという思いを込めて、差し出された両手を自らの両手で包む。歌意はもちろん、穏やかながら重たい6音始まりの上の句の韻律からも、手のひらからふっくらと情動が溢れてきそうな熱量がある。
いずれの歌からも立ち上がる深い身体性があり、竹山が身体と言葉と感情の関係が極めて近い作家性があることがわかる。
言葉を言葉の世界で完結させる作風であれば、掲出歌において川の前に佇む話者の疎外感は趣を異にするものとなっただろう。
竹山は感覚器をして思考する。それが言葉に移し替えられたとき生命感の強い一首になり、かえって現実との葛藤を生む場合にはそれが一首のなかで〈見えるもの〉から〈対象の深層〉へと、読者もともに内省へ向かう。
そんな強さを竹山の歌に感じるのだ。

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