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日本語の単語と英語の単語について考えてみた

日本語の単語と英語の単語について考えてみたいと思います。

言語学的な観点から。。。というような難しい話ではなく、例えば、中学生が国語の文章を読む時と、英語の文章を読む時に、意味を知らない単語に出会った時に、どういうアプローチをするのかということです。

自分ごととしては、日本語の文章も英語の文章もどちらも比較的たくさん読むのですが、基本動作はほぼ変わりません。何回か前の記事で、自分はほぼ100%電子書籍で読むという話をしたのですが、電子書籍で読むようになってから、日英どちらの文章も意味を知らない語彙に対するアプローチが完全に一致しました。というのも、読みながら長押しするだけで意味が調べられるので、どんどん調べるようになったのかなと感じています。

では紙媒体がメインだった時はどうだったかというと、日本語の小説なりを読んでいる時に意味を調べるという動作をした覚えがほとんどありません。しかし、英語の文章を読んでいる時は、知らない単語が出てきたら、基本的には調べていました。(時々、面倒なので調べず読み進めることもありましたが。)

英語は調べる、日本語は調べない。。。

実は、こういうパターンの人は自分だけではないと思います。

多くの場合、英語の文章を読むということは「学習」という意識が強いので、単語の意味を調べることが「学習動作」としてデフォルトなのでしょう。

もちろん、それはすごく良いことだと思いますし、知らない単語は青天井でどんどん覚えれば良いと思います。


しかし、しかし。日本語でそれをやらないのは、致命的に語彙力向上を阻害していると、今更ながらに思うわけです。

いやいや、本当に知らない単語、読み方のわからない単語、多用されていますよ。

文章を書くことを生業としている人の語彙力はすごいですよ、ホントに。

それを調べずして、本当に文章を理解できているのか?
ここは問いただしたほうが良いと思います。

日本語で書かれているのので、何となく分かった気になりがちですが、それは大きな誤りかもしれません。文章読解力の要素として、間違いなく語彙力は含まれるわけですから、ここを意図的に鍛えていくことをしなければ、読解力は上がっていかないはずです。


今更、井沢元彦氏の「逆説の日本史」シリーズを読んでいるのですが、これが面白い!という話ではなく、これほど良く売れた本でも、使われている表現は結構難しいものが多いんです。


〜こうした「旧来の陋習(ろうしゅう)」(五箇条の御誓文)は捨て去るべきだと考えた人々も少なからずいたのである。
初めて言文一致という言葉を使ったのは、個人で日本大百科事典と言うべき『広文庫』を編集した博覧強記の国学者物集高見(もずめたかみ)である。〜

陋習、博覧強記
なかなか、語彙レベル高いでしょ。


というように、日本語の文章も語彙を調べる習慣は身につけていくべきなのではないでしょうか。

そうすると、読書がもっと面白くなるとおもうわけです。