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障害者就労移行支援事業所に通っていたころのお話

今の会社に就職する前のこと。

テレビを見ながら将来のことをぼんやりと考えていて行き着いた結論は、幸せな老後の生活を送ることだった。

老後も安心して生きていくためには国民年金だけでは心許ないから(今後減らされるだろうし)、厚生年金をもらおう、そのためにまず、働かねば!と決意をあらたにして、

でも、てんかん患者で障害者だから体調も考慮したい

よし、それなら障害者雇用で長期でしっかりした収入を得て、余生を楽しもう。

でも障害者雇用での応募はやったことがないし役に立つスキルも身につけておきたい。

そんなことをぐるぐると頭の中で描いたのち、意を決して、知り合いの社労士さんから紹介された障害者就労移行支援事業所の門をたたくことにした。

すべては老後のためだった。

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通所し始めてみると、技術指導を行ってくださる職業指導員のみなさんはとっても優しくて、いつもニコニコして声をかけてくださったり、ちょっとした質問にも丁寧に答えてくださるような安心できる環境を作っていた。

体調がすぐれなかったり不安にさいなまれたりしても、そのたびに温かく親身に話を聞いてくれて、少しでもホッとするよう手を差し伸べてくれていた。

社長は大手外資系企業でバリバリ働いていた人で、障害者福祉とは無縁の世界で活躍したのち、親戚が障害者雇用で苦労したことをきっかけに事業所を立ち上げたという熱い信条を持つ人である。
企業の内事情も知り尽くしていながら、障害者への愛情も深い。
バランスのとれた人である。

ぜひここを信頼して、がんばろうと決めた。

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私は経歴上、一般企業での採用は難しいだろうと最初から遠回しに言われていた。

研究・教育界は世間からすればズレた世界の人だと思われているようで(オブラートに包んで言ってくださったが、つまりはこういうことである)、これは私も覚悟していたことだし、海外とちがって日本ではスペシャリストよりジェネラリストが求められるから、よけいに私は「やっかいな新卒」くらいの扱いだったのだろう。

当時思っていたのは、大学院や研究で蓄積してきた業績なんぞ使い物にならないのだから、研究職なんかするんじゃなかった、時間の無駄だったということだった。

とことん自己否定の日々だった。

その分、社長からは面接練習や書類の自己PRなどで、とにかく自分には「優しさ」「温かみ」があることをアピールするようにと言われていた。

どうやら研究・教育界の人間はコミュニケーション能力が低くて偉そうな態度をとるプライドの高いものだと思われているらしい。

私は職が決まればよいので、そんな偏見はどうでもよくて、とにかく「ふつう」の世界の常識を自分に叩き込んだ。

事業所はこの先に待っている社会の凝縮だと思ってたから、慣れるのも戦略である。

すべては将来のためである。

厚生年金をゲットするためである。

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パソコンをメインで訓練するうえで、なんの目的もないのもつれないので、職業指導員さんのお勧めでパソコン技能検定試験を受けてみることにした。

WordとExcelの試験なのだが、合格すれば級を履歴書に書けるということを耳にした途端がぜんやる気になって、2ヶ月先の試験に向けてしっかりと対策することに決めた。

過去問から解いていくと最初はちんぷんかんぷんで指導員さんたちに質問してばっかりだったのだが、慣れてくると徐々に面白くなって、問題をひたすらもくもく解いていくという通所生活の日々を過ごすことになった。

できるようになると通うのが楽しくなっていく。

2ヶ月も時間をかけたから、ちゃんと受かったときには心の底から嬉しかったし「合格」という感覚はひさしぶりに味わって、やっぱりいいなと思った。

当時そこはかとなく不安で仕方なかったから、よけいに。

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2週間に1度、就労支援員さんから就職活動の実務的な準備の方法や戦略を教えていただくことになった。

どこを受けていくかのアドバイスをいただいたり、履歴書とか面接対策などをみっちり指導していただく貴重な時間である。

日本のメーカー企業一筋で働いてきた人だったのだが、もう眼光が鋭くて適度に日焼けしていて口調もオラオラ系の威圧感たっぷりのおじさんだった。

福祉といってもいろいろな人がいるのだなと思いながら、カウンセリングのたびに緊張し、ギロっと睨まれて(いるような気分になって)身のすくむ思いをしながら社会の厳しさを知ったのだった。

そんな就労支援員さんから盛んに勧められていた職業は、公務員だった。

最初はびっくりしたのだが、よくよく聞いてみたところ、これまでの私の経歴をふまえると公務員は一番領域が近くて経験が活かせると思うとのことだった。

そうか、たしかに公務員にも厚生年金がある。
(私の判断基準はこれである。)
都道府県レベルでも市町村レベルでもなんでもいい。

よし、そうと決まればとにかく公務員を目指そうと決め、一心不乱に勉強した。

私の受けようとした地域の公務員試験は、障害者雇用といっても筆記試験があって、高校卒業程度の学力が必要だとされていた。

過去問や先輩たちの話によると、筆記試験の問題には現代社会や政治だけでなく、数学だの物理だの英語だのも出されるとのことで、それを聞いた瞬間意識が遠のいた(てんかん発作ではない)。

もうとうの昔に生き別れた記憶を掘り起こすのはとうてい無理だったので、公務員試験の問題集やSPIの問題集を買ってひたすら問題を解きまくったり、図書館で「政治・経済」「倫理」「世界史」「地政学」の教科書や書籍を片っ端から借りてノートにまとめながら、とにかく新たな知識を脳みそに植え付ける作業にいそしんだ。

特に数学はしんどいことこのうえない。
組み合わせとか確率の出し方なんてとっくに忘れてるし、正解は1個しかない。
論述なら部分点がもらえるのに1問1答式は0か100かである。
精神的にもしんどかった。

物理は高1でドロップアウトしたので、はなからあきらめることにした。
脳に余計な負荷はかけてはならぬ。

事業所では週に一度、試験対策の授業を提供してくださっていて、特に数学の解き方を中心に戦略を教えていただいた。

教室内の雰囲気もよくて、公務員試験を受ける通所者の皆さんと一緒に「みんなで受かろうね」とほのぼのと励ましあっていた。

試験には学力試験のほかに作文試験もあったので、事業所で原稿用紙をもらって家で過去問を解き、事業所に持っていって職業指導員さんに添削をしていただいた。

職業指導員さんは優しすぎる人柄なのもあって「うん、しっかり書けてますよ~」と褒めるばかりだったので、これで本当に大丈夫なのだろうか?と私はむしろ一抹の不安を覚えた。

就労支援員さんも作文を見てくださって、「だ・である」口調で書いていたら「強い印象を与えるから「です・ます」調がいい。こっちのほうが柔らかい」などとアドバイスをくださった。

彼の剛健でギロっとした目つきと、この助言とのギャップ・・

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同時に、民間企業も次々に受けてみた。

ことごとく落とされた。

履歴書とか職務経歴書とかを就労支援員さんにしっかりと見てもらってかなり修正していただいたのだが、これでもかというくらい書類審査でお祈りメールが送られてきた。

なにが決め手となって落とされたのかは分からない。

身体障害者のほうが重宝されるとか、てんかんに偏見があるかもしれないとか、そもそも雇う気はないのに求人出してるだけだろうとか、もう色々とうんざりするような理由も事業所から聞こえてきた。

それでも、出さないと厚生年金もらえないからと思って自分を鼓舞し、どんどん出していた。

惨敗だったのだが。

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事業所では、午前中にパソコン実習があって、午後は日替わりで自己分析だったりみんなで集まってディスカッションだったりが開催されていた。

といっても難しいことばかりではなく、とっつきやすいトピックで話し合ったり、時にはみんなでその季節ならではの食べ物でランチをしたり、わいわいカードゲームをして盛り上がる日もあった。

私は午前中パソコン実習にいそしんで、午後は帰宅して試験勉強をするという日々を送っていた。

通所者のみなさんと仲良くなりたい気持ちもあったのだが、なにより公務員試験の勉強が大変すぎていっぱいいっぱいだったので泣く泣く帰宅していた。

それでもパソコン技能検定試験で一緒だった人などとちらほら話すようになって、ちょっとした休憩時間などに「昨日受けたとこ、志願者少なかったです」と情報共有したり「あそこ受けたけど落ちました〜」「次いきましょ、次ー!」とお互い声を掛け合うようになった。

事業所でのこうしたやり取りは、追い詰められていた当時の私にとって笑顔になってホッとする束の間のひとときだった。

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当時通所する道すがら、つくづく思っていたのは、
「来年の今頃は笑っていたい」 だった。

今はつらい、しんどい、先が見えなくて不安、でも来年の今頃は笑っていられるようになりたい、大丈夫、事業所の支援員さんも支えてくれてるし、がんばろう。でも不安、いや大丈夫、でも・・

この繰り返しだった。

ぱかーんと晴れて青空が広がっていても心の中はどんよりしていたし、よしもと新喜劇を観ていてもひきつり笑いしかできなくて上の空だった。

こんな精神状態でよく発作も起きず続いたものだと今になって思う。
精神科の医師には事業所に通っていることや公務員試験勉強でいっぱいいっぱいになってることは伝えていて、その都度がんばっていますね、と温かく返してくださったのも精神状態を前向きに保つうえで大きかったのかもしれない。

いやあ、しんどかった。

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ようやく就職先が決まった。

今の勤務先である。

面接会場までは道に迷わないように事前に行っておいたほうがいいよと支援員さんからアドバイスを受けたので実際に歩いて確認しておいたり、ウェブサイトでみっちり会社の下調べをして履歴書の志望動機で取り上げたりした。

面接では就労支援員さんも同席が求められていて、質問は私に対してのみだったのだが、私のてんかんの話になって一瞬沈黙が起こるとすぐに「病気持ちながらも博士まで行ったので大丈夫です」と彼がすかさず力強く言い放ち、面接官も大きくうなずいていらっしゃった。
それまでは研究にいい印象を持ってないようだったのだが、初めてポジティブにアピールしてくださったので、私一人だけむしろびっくりしておじさんを2度見した。

そのほか面接で聞かれた内容は、準備していたよりもしごくあっさりしていて、拍子抜けするほどだった。

それでもどっと疲れた。
さんざん落ちてきたから特に気にしないようにしようと思ったけど、初めての面接だったから結果が出るまではそれなりにそわそわしていた。

翌々日、自宅で勉強していたところに就労支援員さんから電話がきた。

採用されたとの報告だった。

通所して7か月後のことである。

決まるまでの期間が早いのか遅いのかは分からないのだが、やっと決まって、とにもかくにもほっとした。

これで厚生年金がもらえるのだから。

そして採用の通知と同時に、そのとき机の上に広げていた公務員試験用の問題集とノートをバンっと勢いよく閉じて、速攻で書棚にしまった。

分かっていた。

そもそも自分は性格上、公務員にはむいていない(笑)

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1週間後、お世話になった事業所に菓子折りをもって挨拶に行った。

すでに情報は共有されていたようで、会う指導員さん・支援員さんが皆、私の顔を見るやいなや目を輝かせてお祝いの言葉をかけてくださった。

公務員試験対策を担当していた指導員さんは、「勉強がんばっていたからなんか複雑だけど、でも決まって何より!よかった!」と顔をほころばせていた。

就労支援員さんは私を見ると破顔しておめでとうと言ってくださったのち、すぐに「公務員はどうする?」と聞いてきた。
「受けません!」と元気よく答えたところ、「そうか」と少ししょんぼりした表情を顔に浮かべていた(ように見えた)。
公務員を目指して勉強していた私を知っているからか、私が決まったのはどこか複雑な心境だったのかもしれない。
それでもすぐに、よかったなと微笑んでいた。

社長もたいそう喜んでくださった。
就労開始まで3週間ほどあったのだが、印象深かったのが「これまでお世話になった人に、お礼と報告に行きなさい」と真剣に言われたことだった。
就活中にお世話になった人に限らず、これまでの人生でお世話になった人に今回の報告と顔を見せに行きなさいということだという。

仕事が始まったらゆっくりと時間が取れなくなるでしょう?それが退職まで続く。ご挨拶は今しかない、と。

今になって思う。

事業所では当初就活の戦略を習得しに行ったのだが、人とのつながりの大切さとか感謝とか、そういう人間の深い部分も教えていただいた。

貴重な時間だった。

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本番はこれからである。

厚生年金をしっかりともらうには、定年退職まで働き続けなければならない。

数十年あるうえに、定年も延びるのは間違いないからまだまだ先は長いだろう。

たしかに病気を持ってるから、この先どうなるかなんて分からない。

むずかしいのだが、張り切りすぎると身体がどうなるか不安なので、仕事はちょうどいい塩梅でほどほどに融通を効かせる程度でよい。

無理してがんばりすぎる必要はない。

厚生年金がもらえればそれで充分。

そのために身体と心と脳を大切にしながら生きていくことを心に決めて、日々を慎ましやかに送っている。

人生の本番はここからである。

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