やさしく解説「ヨハネの黙示録」
はじめに
ヨハネの黙示録は、終末に臨む私たちが、絶対に学んでおくべき書です。
今回、細かな点は扱いません。
この書を学ぶために重要な点だけを、簡単にお伝えできればと思います。
決めつけずに読む
ヨハネの黙示録は、未来の出来事を扱っているため、はっきりと答えを出すことが難しい書です。
にもかかわらず、たくさんの神学者が、じつにはっきりと、それぞれに違った答えを造り出しています。
まずは、これらに惑わされないでください。
このブログに書かれたことも例外ではありません。
「そうかもしれない」という程度に考えることが重要です。
そうして、新たな発見があったときに、考えを変えることができるようにしておくことです。
考えを変えられる人だけが、真理にたどり着くことを覚えてください。
黙示録の構造
黙示録は、大きく二つのパートに分かれています。
前半パートは、教会への勧告。
後半パートは、人類の歴史です。
そして注意してください。
この書は、時系列に沿って書かれているのではありません。
ダニエルの預言がそうであったように、人類の歴史を最後まで述べたかと思えば、また初めからその歴史を述べ、というように、何度も繰り返し語っているのです。
前半パート 教会への勧告
前半パートも、ある意味、人類の歴史といえます。
実際、各教会を年表に結び付けて考える方もいるほどです。書かれたことが、各時代の教会の姿と酷似しているからです。
しかし、そこまでしてしまっては、聖書から外れてしまう危険性があります。
大切なのは、このパートが何を伝えたいのか、ということです。
「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」と七度もあるように、七つの勧告すべてが、私たちに向けて書かれた勧告です。
一体、何が勧告されているのでしょうか。
それは、「偽りの教えに惑わされず、真理に立て」ということです。
偽りの教えに惑わされた教会は、「生きているとは名ばかりで、じつは死んでいる(黙示録3:1)」とあるように、救いの確信はあっても、その実、永遠の命を持たない状態になってしまうのです。
特に七つ目の教会、ラオデキヤ教会の姿は、現在の私たちの姿だと考えていいでしょう。
「熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう(黙示録3:15)」とは、
熱心でもなく、かといって霊の困窮もないので、御国から追い出されてしまうということです。
「自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない(黙示録3:17)」とは、
救いの確信を得て喜んではいるが、その実、真理を知らず、キリストの義を着ておらず、御国を相続することもないということです。
「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている(黙示録3:20)」とは、
もはや彼らはキリストのうちにおらず、キリストも彼らのうちにいないということです。
こんな絶望的状況にある教会に向けて、主は救いの手を差し伸ばすべく、この書を世に残されたのです。
後半パート 人類の歴史
現代、多くの人が、黙示録を、時系列に沿って書かれたものとして読んでいます。
すなわち、「七つの封印の出来事のあとに、七つのラッパの出来事があり──」といった具合です。
しかし素直に読むなら、七つの封印の出来事は、人類歴史のダイジェストです。
一般に、巻物の外側に書かれたのは、書いた人物の紹介と、概要です。
封印を剥がすたびに、外側に書かれた概要が見えてくるのです。
実際、七つの封印の出来事は、七つのラッパや七つの鉢の出来事と重なっています。
すなわち、七つの封印は概要で、その詳細について書かれたものが、七つのラッパと、七つの鉢なのです。
そのあいだに、竜や大淫婦に焦点を当てて、人類の歴史が何度も繰り返し書かれている、これが黙示録の構造であることを覚えてください。
黙示録の対称表現
黙示録は、精密な対称表現を使って書かれています。
これにより、真理と偽り、善と悪、真の教会と背教した教会を、区別できるようになっているのです。
これを知らずして、この書を読み解くことはできません。
聖徒(ハギオス) ←→ 淫婦(ポルネー)
証印(スフラギス) ←→ 刻印(カラグマ)
栄冠(ステファノス) ←→ 王冠(ディアデマ)
白(レウコス) ←→ 様々な色
二人 ←→ 二億
オリーブ、オリブ油 ←→ 葡萄、葡萄酒
これらは原文において、完璧に書き分けられているので、意図的であることは間違いありません。これらの単語が、相手側に使われることは、けっしてないのです。
たとえば、次の聖句に出てくる白い馬の騎手は、キリストだとも、反キリストだとも解釈されています。
ここに出てくる「白(レウコス)」また「冠(ステファノス)」という単語から、これが真理に属する者、すなわちキリストであることがわかります。
次にこの方が現れたとき、彼は敵の王冠(ディアデマ)をかぶっていますから、十の角を持つ敵に勝利して、王冠を奪い取ったことがわかります。
黙示録の読み方
次の聖句を見てみましょう。
一般に、これは飢饉について書かれたものだと教えられます。
そうかもしれません。
別の箇所を参考にするならどうでしょう。
パンの飢饉ではなく、御言葉の飢饉、そう言っているのかもしれません。
黙示として読むならどうでしょう。
黙示とは、わかる人にだけわかるように、キーワードを使って書かれた文書のことです。
「小麦一ますは一デナリ。大麦三ますも一デナリ。オリブ油とぶどう酒とを、そこなうな」
ここに出てくる穀物、オリーブ、葡萄、これらすべてが、主が教会を表すのに使った言葉です。しかも黙示録において、オリーブは真の教会、葡萄は背教した教会に使われる言葉です。
それなら、こう言っているのかもしれません。
「教会は等しく価値の高いものである。真の教会であれ、背教した教会であれ、これをそこなうな」
そう考えると、ほかの箇所とも調和するように感じられます。
「測るな」とは、「今はまだ裁くな、判定するな」ということです。
これは主の言葉とも一致します。
とはいえ、答えを一つに限定する根拠を、今のところ私は持ちません。
それなら、すべての可能性に備えておくのが安全です。
黙示録に関しては、このような柔軟な読み方をオススメします。
後半パートの伝えたいこと
さて、後半パートの伝えたいことは何でしょうか。
それは、前半パートと同じです。
「偽りの教えに惑わされず、真理に立て」そう勧告しているのです。
前半パートも、後半パートも、クリスチャンがすべて救われるとは教えていないことに注意してください。
救われるのは、聖徒だけです。その特徴は、次のように書かれています。
結局のところ、もうすべてが聞かされていたことです。
神を恐れ、神の戒めを守れ。
これが人間にとってすべてなのです。
おわりに
黙示録は、真理と偽りに揺れ動く教会の姿を書いたものであり、それぞれの結末を、私たちにはっきりと伝えています。
聖徒となるか、大淫婦となるか、二つに一つなのです。
聖徒の特徴は、神の戒めを守り、どこまでも主に従うことです。
念のために言っておきますが、戒めを守れたら救われるのではありません。
十戒に服従し、これを守りたいと心から願う人に、救いが与えられるのです。
その救いとは、罪からの救いです。罪を離れ、義に生きられるようになるということです。
これは神の恵みであり、私たちはこれを受け取りさえすればいいのです。
サタンはそうさせないために、大淫婦に権威を持たせ、「神の戒めを守る必要はない」とか、「従わない者も救われる」と教えます。
それに惑わされるなら、死んでしまいます。
これこそが、黙示録の教える最後の戦い、大患難ではないでしょうか。
竜が殺そうとするのは、私たちの体ではありません。私たちの永遠の命なのです。
人々が「平和だ、無事だ」と言っている矢先に、この戦いは終わります。
そうして主が聖徒を迎えに来られたとき、あなたはそこに含まれているでしょうか。
目を覚ましてください。
今、どのような戦いが行われているのか、聖書をよく調べてください。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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