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やさしく解説「ヨハネの黙示録」

はじめに

ヨハネの黙示録は、終末に臨む私たちが、絶対に学んでおくべき書です。

ヨハネの黙示録
1:3 この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて、その中に書かれていることを守る者たちとは、さいわいである。時が近づいているからである。

今回、細かな点は扱いません。
この書を学ぶために重要な点だけを、簡単にお伝えできればと思います。

決めつけずに読む

ヨハネの黙示録は、未来の出来事を扱っているため、はっきりと答えを出すことが難しい書です。

にもかかわらず、たくさんの神学者が、じつにはっきりと、それぞれに違った答えを造り出しています。

まずは、これらに惑わされないでください。
このブログに書かれたことも例外ではありません。
「そうかもしれない」という程度に考えることが重要です。

そうして、新たな発見があったときに、考えを変えることができるようにしておくことです。

コリント人への手紙 第一
8:2 もし人が、自分は何か知っていると思うなら、その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ知っていない。

考えを変えられる人だけが、真理にたどり着くことを覚えてください。

黙示録の構造

黙示録は、大きく二つのパートに分かれています。
前半パートは、教会への勧告
後半パートは、人類の歴史です。

そして注意してください。
この書は、時系列に沿って書かれているのではありません

ダニエルの預言がそうであったように、人類の歴史を最後まで述べたかと思えば、また初めからその歴史を述べ、というように、何度も繰り返し語っているのです。

前半パート 教会への勧告

前半パートも、ある意味、人類の歴史といえます。
実際、各教会を年表に結び付けて考える方もいるほどです。書かれたことが、各時代の教会の姿と酷似しているからです。

しかし、そこまでしてしまっては、聖書から外れてしまう危険性があります。
大切なのは、このパートが何を伝えたいのか、ということです。

「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」と七度もあるように、七つの勧告すべてが、私たちに向けて書かれた勧告です。

一体、何が勧告されているのでしょうか。

それは、「偽りの教えに惑わされず、真理に立て」ということです。

偽りの教えに惑わされた教会は、「生きているとは名ばかりで、じつは死んでいる(黙示録3:1)」とあるように、救いの確信はあっても、その実、永遠の命を持たない状態になってしまうのです。

特に七つ目の教会、ラオデキヤ教会の姿は、現在の私たちの姿だと考えていいでしょう。

「熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう(黙示録3:15)」とは、
熱心でもなく、かといって霊の困窮もないので、御国みくにから追い出されてしまうということです。

「自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない(黙示録3:17)」とは、
救いの確信を得て喜んではいるが、その実、真理を知らず、キリストの義を着ておらず、御国みくにを相続することもないということです。

「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている(黙示録3:20)」とは、
もはや彼らはキリストのうちにおらず、キリストも彼らのうちにいないということです。

こんな絶望的状況にある教会に向けて、しゅは救いの手を差し伸ばすべく、この書を世に残されたのです。

後半パート 人類の歴史

現代、多くの人が、黙示録を、時系列に沿って書かれたものとして読んでいます。
すなわち、「七つの封印の出来事のあとに、七つのラッパの出来事があり──」といった具合です。

しかし素直に読むなら、七つの封印の出来事は、人類歴史のダイジェストです。

ヨハネの黙示録
5:1 わたしはまた、御座にいますかたの右の手に、巻物があるのを見た。その内側にも外側にも字が書いてあって、七つの封印で封じてあった。

一般に、巻物の外側に書かれたのは、書いた人物の紹介と、概要です。
封印を剥がすたびに、外側に書かれた概要が見えてくるのです。

実際、七つの封印の出来事は、七つのラッパや七つの鉢の出来事と重なっています

すなわち、七つの封印は概要で、その詳細について書かれたものが、七つのラッパと、七つの鉢なのです。

そのあいだに、竜や大淫婦に焦点を当てて、人類の歴史が何度も繰り返し書かれている、これが黙示録の構造であることを覚えてください。

黙示録の対称表現

黙示録は、精密な対称表現を使って書かれています。
これにより、真理と偽り、善と悪、真の教会と背教した教会を、区別できるようになっているのです。

これを知らずして、この書を読み解くことはできません。

  • 聖徒(ハギオス) ←→ 淫婦(ポルネー)

  • 証印(スフラギス) ←→ 刻印(カラグマ)

  • 栄冠(ステファノス) ←→ 王冠(ディアデマ)

  • 白(レウコス) ←→ 様々な色

  • 二人 ←→ 二億

  • オリーブ、オリブ油 ←→ 葡萄ぶどう葡萄ぶどう

これらは原文において、完璧に書き分けられているので、意図的であることは間違いありません。これらの単語が、相手側に使われることは、けっしてないのです。

たとえば、次の聖句に出てくる白い馬の騎手は、キリストだとも、反キリストだとも解釈されています。

ヨハネの黙示録
6:2 そして見ていると、見よ、白(レウコス)い馬が出てきた。そして、それに乗っている者は、弓を手に持っており、また冠(ステファノス)を与えられて、勝利の上にもなお勝利を得ようとして出かけた。

ここに出てくる「白(レウコス)」また「冠(ステファノス)」という単語から、これが真理に属する者、すなわちキリストであることがわかります。

次にこの方が現れたとき、彼は敵の王冠(ディアデマ)をかぶっていますから、十の角を持つ敵に勝利して、王冠を奪い取ったことがわかります。

ヨハネの黙示録
19:11 またわたしが見ていると、天が開かれ、見よ、そこに白(レウコス)い馬がいた。それに乗っているかたは、「忠実で真実な者」と呼ばれ、義によってさばき、また、戦うかたである。
19:12 その目は燃える炎であり、その頭には多くの冠(ディアデマ)があった。また、彼以外にはだれも知らない名がその身にしるされていた。

黙示録の読み方

次の聖句を見てみましょう。

ヨハネの黙示録
6:5 また、第三の封印を解いた時、第三の生き物が「きたれ」と言うのを、わたしは聞いた。そこで見ていると、見よ、黒い馬が出てきた。そして、それに乗っている者は、はかりを手に持っていた。
6:6 すると、わたしは四つの生き物の間から出て来ると思われる声が、こう言うのを聞いた、「小麦一ますは一デナリ。大麦三ますも一デナリ。オリブ油とぶどう酒とを、そこなうな」

一般に、これは飢饉ききんについて書かれたものだと教えられます。
そうかもしれません。

別の箇所を参考にするならどうでしょう。

アモス書
8:11 主なる神は言われる、「見よ、わたしがききんをこの国に送る日が来る、それはパンのききんではない、水にかわくのでもない、主の言葉を聞くことのききんである

パンの飢饉ききんではなく、御言葉みことば飢饉ききん、そう言っているのかもしれません。

黙示として読むならどうでしょう。
黙示とは、わかる人にだけわかるように、キーワードを使って書かれた文書のことです。

「小麦一ますは一デナリ。大麦三ますも一デナリ。オリブ油とぶどう酒とを、そこなうな」

ここに出てくる穀物オリーブ葡萄ぶどう、これらすべてが、しゅ教会を表すのに使った言葉です。しかも黙示録において、オリーブは真の教会葡萄ぶどう背教した教会に使われる言葉です。

それなら、こう言っているのかもしれません。

「教会は等しく価値の高いものである。真の教会であれ、背教した教会であれ、これをそこなうな」

そう考えると、ほかの箇所とも調和するように感じられます。

ヨハネの黙示録
11:2 聖所の外の庭はそのままにしておきなさい。それを測ってはならない。そこは異邦人に与えられた所だから。彼らは、四十二か月の間この聖なる都を踏みにじるであろう。

「測るな」とは、「今はまだ裁くな、判定するな」ということです。
これはしゅの言葉とも一致します。

マタイの福音書
13:30 収穫まで、両方とも育つままにしておけ。収穫の時になったら、刈る者に、まず毒麦を集めて束にして焼き、麦の方は集めて倉に入れてくれ、と言いつけよう』」。

とはいえ、答えを一つに限定する根拠を、今のところ私は持ちません。

それなら、すべての可能性に備えておくのが安全です。
黙示録に関しては、このような柔軟な読み方をオススメします。

後半パートの伝えたいこと

さて、後半パートの伝えたいことは何でしょうか。

それは、前半パートと同じです。
「偽りの教えに惑わされず、真理に立て」そう勧告しているのです。

前半パートも、後半パートも、クリスチャンがすべて救われるとは教えていないことに注意してください。

救われるのは、聖徒だけです。その特徴は、次のように書かれています。

ヨハネの黙示録
12:17 龍は、女に対して怒りを発し、女の残りの子ら、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを持っている者たちに対して、戦いをいどむために、出て行った。

ヨハネの黙示録
14:12 ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある」。

結局のところ、もうすべてが聞かされていたことです。
神を恐れ、神の戒めを守れ。
これが人間にとってすべてなのです。

おわりに

黙示録は、真理偽りに揺れ動く教会の姿を書いたものであり、それぞれの結末を、私たちにはっきりと伝えています。

聖徒となるか、大淫婦となるか、二つに一つなのです。

聖徒の特徴は、神の戒めを守り、どこまでもしゅに従うことです。

念のために言っておきますが、戒めを守れたら救われるのではありません

十戒じっかいに服従し、これを守りたいと心から願う人に、救いが与えられるのです。
その救いとは、罪からの救いです。罪を離れ、義に生きられるようになるということです。
これは神の恵みであり、私たちはこれを受け取りさえすればいいのです。

サタンはそうさせないために、大淫婦に権威を持たせ、「神の戒めを守る必要はない」とか、「従わない者も救われる」と教えます。
それに惑わされるなら、死んでしまいます。

これこそが、黙示録の教える最後の戦い、大患難ではないでしょうか。
竜が殺そうとするのは、私たちの体ではありません。私たちの永遠の命なのです。

人々が「平和だ、無事だ」と言っている矢先に、この戦いは終わります。
そうしてしゅ聖徒を迎えに来られたとき、あなたはそこに含まれているでしょうか。

目を覚ましてください。
今、どのような戦いが行われているのか、聖書をよく調べてください。
正しいのは、いつだって聖書だからです。

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