見出し画像

わかりませんという勇気

はじめに

多くのクリスチャンが、預言の解き明かしをしようと頑張っています。

私たちもこれを見習うべきです。
そうしないなら、人の意見をみにするだけになってしまうからです。

しかし、ときにはわからないこともあるかと思います。
そんなときこそ、気をつけてください。

というのも、わからない自分を認められず、プライドによって、むりやり答えを作り出している人があまりにも多いからです。

使徒や預言者はどうだったか

聖書には、啓示や幻を受けた人がたくさん出てきますが、彼らはそれが何を意味するのか、いつもわかっていたでしょうか。

あるときペテロは、四隅をつるされた敷布に様々な生き物が入って地上に降りて来るのを見ましたが、これが何であるかを理解したでしょうか。

使徒の働き
10:17 ペテロが、いま見た幻はなんの事だろうかと、ひとり思案にくれていると──

わかっていません。
ペテロが理解したのは、その出来事が実際に起こったときです。すなわち、異邦人であるコルネリオから招かれたときに、神様はどんな人間をも清くないとか、けがれていると言ってはならないことを示されたのだと気づいたのです。

預言者ダニエルはどうだったでしょう。

ダニエル書
8:27 われダニエルは疲れはてて、数日の間病みわずらったが、後起きて、王の事務を執った。しかし、わたしはこの幻の事を思って驚いた。またこれを悟ることができなかった

わかっていません。
彼らが理解するのは、御使いから解き明かしを受けたり、それが実際に起こったりしたときなのです。

それなのに、取るに足りない私たちが、預言や啓示に対して、すべての答えを持ち合わせているのはどういうことでしょう。

本当はわからないはずなのに、むりやり答えを造り出しているからではないでしょうか。

黙示録の解釈

黙示録ほど、様々な解釈を生み出してきた書物はないでしょう。

まだ起こってもいない出来事を、人々はなぜ、自信を持って説明できるのでしょうか。
本当はわからないはずなのに、それでは納得できず、無理な解釈を施していることはないでしょうか。

たとえば、獣の刻印です。

ヨハネの黙示録
13:16 また、小さき者にも、大いなる者にも、富める者にも、貧しき者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々に、その右の手あるいは額に刻印を押させ
13:17 この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした。この刻印は、その獣の名、または、その名の数字のことである。

これが何であるか、数百もの解釈が存在します。
世の中にそれっぽいものが出てくるたびに、「これが獣の刻印だ」と騒がれてきました。

信憑性しんぴょうせいのある解釈の一つとして、「日曜休業令」というものがあります。世界的に「日曜日を休め」という法令が発布されて、安息日が守れなくなるというのです。

そうかもしれません。
しかし、そうでなかったら?

もしかしたら、獣の刻印とは、獣の教えに従うこと自体を指すのかもしれません。実際、人は何に従うかによって、その所属が決まるのだと聖書は教えます。

その場合、「日曜休業令」が発布されるかのように思わせるほうが、サタンにとって都合がいいとは思いませんか?

とはいえ、「日曜休業令」が本当に獣の刻印であった場合、これに備えていなかった人は、簡単に刻印を受けることになってしまうでしょう。

ですから、あらゆる可能性に備えておくほうが安全です。
「わからない」という態度は、ときに安全な方法であることを覚えてください。

いつまでもわからないままではいけない

私たちが「わからない」状態でいるのは、時が来るまでです。
そのときになっても、わからないままではいけません。

マタイの福音書
16:2 イエスは彼らに言われた、「あなたがたは夕方になると、『空がまっかだから、晴だ』と言い、
16:3 また明け方には『空が曇ってまっかだから、きょうは荒れだ』と言う。あなたがたは空の模様を見分けることを知りながら、時のしるしを見分けることができないのか

時のしるしを見分けなかったせいで、人々は救い主を殺してしまったのです。

同じ失敗をしてはいけません。
わからないものは「わからない」としつつも、
聖書をよく調べ、それがわかるように備えることは、とても大切なことなのです。

読者よ、悟れ

マタイの福音書
24:15 預言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべき者が、聖なる場所に立つのを見たならば(読者よ、悟れ)
24:16 そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。

「読者よ、悟れ」これは聖書の中で、とても珍しい表現です。マタイとマルコ、両方の福音書に書かれているので、よほど重要なことなのでしょう。

かつて、これとそっくりな事件が起こりました。
紀元前167年、アンティオコス四世・エピファネスが、エルサレムの神殿にゼウス像を立てたのです。

ダニエルは第一義的に、このことを預言した可能性もあります。
しかしイエス様は、そのあとに来られ、警告されたのですから、別のことを指しているはずです。

その後、またこれとそっくりな事件が起こりました。
紀元70年、ローマ軍がエルサレムを取り囲み、神殿を踏みにじったのです。

しゅはこのことを言っておられたのでしょうか。
いいえ、こうも言っておられます。

マタイの福音書
24:20 あなたがたの逃げるのが、冬または安息日にならないように祈れ。
24:21 その時には、世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難が起るからである
(途中省略)
24:29 しかし、その時に起る患難の後、たちまち日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。
24:30 そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう

最後の患難のときについて述べられたのは明らかです。

ではなぜ、その前にそっくりな出来事が起こるのでしょう。

二つの理由が考えられます。

一つは、神様がリハーサルとして、私たちに備えをさせるためになさった可能性です。
実際、聖書には、そのような出来事がたくさん出てきます。

もう一つは、サタンのフェイクです。
サタンは、預言の成就であるかのようなにせの奇跡を起こして、私たちを惑わすことさえするのです。

そのどちらなのかは、わかりません。
「わかりません」というのは、情けなく感じるかもしれませんが、誠実な態度でもあります。
無理な解釈をせず、「わかりません」と言える勇気を持ちましょう。

おわりに

「獣の刻印はマイクロチップのことだ」と言う人は、マイクロチップを避けることに集中し、「いや、あの注射のことだ」と言う人は、注射を受けなかったことで安心しています。

それはとても危険なことです。
それこそ、サタンの思惑どおりではないでしょうか。

「わかりません」というほうが、まだ安全です。

しかし何より安全なのは、神様のもとへ身を避けることです。
すなわち、聖書をよく読み、その御言葉みことばを行う者になること。これよりも安全なことはありません。そのような人は、やがて実を結び、収穫されるからです。

マタイの福音書
7:24 それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。
7:25 雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。

反対に、「信じるだけ」という人がいますが、このような人は倒れてしまいます。

マタイの福音書
7:26 また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。
7:27 雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである」。

そのときになると、大勢の「信じるだけクリスチャン」が、ひどい倒れ方をするでしょう。
聖書の御言葉みことばは、すべて実現することになるからです。

謙遜になって、私たちの安全がどこにあるのか、聖書をよく確かめてみましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。

(気に入った記事はSNSでシェアしていただければ幸いです)