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新約を受ける方法

はじめに

聖書の中には「新約」と呼ばれる契約があります。

これは聖書の中で最も大切な契約とされており、この契約を神様と交わす人だけが救われると教えられています。

では一体、どうやって神様とこの契約を交わせばいいのでしょうか。

これについて、各教会の教えはバラバラです。

今、ご自身の目で聖書から確認してみましょう。

新約を受ける資格

まずはその文面を見てみましょう。

エレミヤ書
31:33 しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。

これが新約です。この契約は、イスラエルの家と立てる契約だと書かれています。
だとすると、異邦人はこの契約を受ける資格がないのでしょうか。

いいえ、キリストの血によって、誰でも新約を受けることができます。

ルカの福音書
22:20 食事ののち、杯も同じ様にして言われた、「この杯は、あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である。

これはどういう意味でしょうか。
聖書は次のように教えます。

エペソ人への手紙
2:11 だから、記憶しておきなさい。あなたがたは以前には、肉によれば異邦人であって、手で行った肉の割礼ある者と称せられる人々からは、無割礼の者と呼ばれており、
2:12 またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった。
2:13 ところが、あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。
2:14 キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、
2:15 数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、
2:16 十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。
(途中省略)
2:19 そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。

ここに、大切なことがたくさん書かれています。

まず、異邦人であった私たちには、イスラエルの国籍がなく、神の契約に無関係の者でした。割礼がなく、モーセ律法も守っていなかったからです。

しかし、キリストが「数々の規定からなる戒めの律法」を廃棄したことで、隔ての壁は取り除かれました。

そのおかげで、キリストにある私たちは、もはや異国人でも宿り人でもなく、イスラエルの国籍を持つ者となったのです。

このことを理解したなら、新約の文面をもう一度見てみましょう。
「わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす」とあります。
これを理解しなければ、新約を受けることはできません。

この律法とは何でしょうか。

素直に考えれば、すぐに分かるはずです。
それは十戒じっかいです。
神の指によって書かれ、神の宮に納められた律法は、十戒じっかいのほかにないからです。

イエス様の教え

まずは覚えてください。
私たちをイスラエルと一つにするために、キリストは「数々の規定からなる戒めの律法」を廃棄しました。

一方、十戒じっかいについては次のように教えられています。

マタイの福音書
5:18 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。

なぜこれが十戒じっかいについての言葉だと分かるかといえば、この直後に、しゅ十戒じっかいの本当の守り方について教え、モーセ律法よりもこちらのほうを守るように教えているからです。

マタイの福音書
5:31 また『妻を出す者は離縁状を渡せ』と言われている。
5:32 しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、不品行以外の理由で自分の妻を出す者は、姦淫を行わせるのである。また出された女をめとる者も、姦淫を行うのである。

マタイの福音書
5:38 『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:39 しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。

このように、レビ記や申命記に書かれた「数々の規定」を守るのではなく、十戒じっかいを心においても守りなさいというのが、キリストの教えです。

これを素直に受け取らなければ、いつまでもキリストと一致することはできません。

新約の必要性

新約の必要性とは何でしょう。
一体なぜ、新約が必要なのでしょうか。

それはずばり、私たちが自分の力では十戒じっかいを守ることができないからです。
このことを心から悟らない限り、新約を受けることはできません。

ルカの福音書
18:11 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、私はほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でなく、また、この徴税人のような者でないことを感謝します。

聖書協会共同訳2018

このような人は、決して天国に入ることはできないとしゅは教えます。

マタイの福音書
5:20 わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。

一方、十戒じっかいの規範に心から服従し、それを守る力が自分にはないことを徹底的に悟った人は、その力を神に求めることになります。

ルカの福音書
18:13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人の私を憐れんでください。』
18:14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。誰でも、高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

聖書協会共同訳2018

このような人にこそ、神は力を与えられます。それが新約です。
この新しい契約を受けた人は、もはや文字によってではなく、霊によって律法に仕えるようになるのです。

コリント人への手紙 第二
3:6 神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。

新約を受け取る準備

さて、これらの教えを受け入れることができたでしょうか。

新約をまだ受けていなかった人は、今、新約を受ける準備ができたかどうか、確認してみましょう。

あなたは、キリストが「数々の規定からなる戒めの律法」を廃棄したことで、肉体の割礼やモーセ律法がなくとも、イスラエルの国籍を持てることを信じますか?

「はい」と答えられないなら、新約を受ける準備はできていません。

次に、十戒じっかいを心においても守りなさい」というキリスト・イエスの教えに服従しますか?

「はい」と答えられないなら、新約を受ける準備はできていません。

最後に、父の御心みこころを行う者となるために、十戒じっかいが思いの中に入れられ、あなたが神の宮となることを望みますか?

「はい」と答えられないなら、新約を受ける準備はできていません。

しかし「はい」と答えるなら、あなたは直ちにこの契約を神と交わすことができます
代金は一切必要ありません。あなたが拒絶さえしなければ、神様は誰とでもこの契約を交わしてくださるのです。

新約を受けた人は、新しく生まれ変わっています。もう、罪に仕える生活は終わり、義に仕える新しい生活が始まったのです。

ローマ人への手紙
6:17 神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規範に心から服従し
6:18 罪から解放されて、義の奴隷となりました。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

おわりに

現代、新約を受けていないクリスチャンが大勢います。
十戒じっかいに服従せず、心に律法が書きつけられていないからです。

その原因は、律法とは無関係の救いを教える教会があるからです。
気をつけてください、それは次の聖句を曲解した、にせの教えです。

ローマ人への手紙
3:21 しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。

曲解して滅んでしまう前に、どうか一つ前の節を見てください。

ローマ人への手紙
3:20 なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。

この聖句は、律法の行いによって救われる者は一人もなく、ただ罪の自覚が生じるのみだと教えているのです。
だからこそ、それとは別に、イエス・キリストを信じる信仰によって、心に律法を書きつけてもらう必要があるのです。

その証拠に、聖句の結論を見てください。

ローマ人への手紙
3:31 すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである

もう、誰にもだまされないでください。
信仰は律法を確立するというのが聖書の教えです。
これに逆らって、律法を無効にするなら、滅びるしかありません。

一体、「わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす」という言葉を無視しながら、「新約を受けた」などと、どうして言えるでしょう。

私たちは今、幼子のようになって、聖書に立ち返るときに来ています。
多くの教会が、聖書とは全然違う教えを語っているからです。

このブログを信じる必要はありません。このブログにも間違いはあるでしょう。
ただ、聖書を信じてください。
正しいのは、いつだって聖書だからです。

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