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律法とは何か、聖書の読み方

はじめに

同じ聖書を読んでいても、世の中には正反対の聖書解釈をする人同士があふれています。
これは本当に不思議なことです。

その中で、私には気づいたことがあります。
それは、読みたいように読むなら、いくらでもその意見を擁護するような聖句を探し出せてしまうということです。

実際、人々は自分の信じる説を擁護する聖句を、聖書のあらゆる箇所から探し出してきます。

かく言う私も、自分の意見を擁護したくて、そのような聖句を一生懸命探したことがありました。そして実際、それはたくさん出てくるのです。

しかし同時に、その説を否定する聖句も、じつはたくさん見つけていました。
そんなとき、私はどうしたでしょう。

「見なかったことにしよう」そういう誘惑に駆られました。

けれど、神様がそうはさせませんでした。
本当に感謝なことです。そのような聖句から目をそらすことに、私は葛藤を覚えたのです。
これこそが、聖霊の導きだと私は信じています。

聖霊の導きを得て読む

聖書を読む上で一番大切なことは、聖霊の導きを得て読むことです。
読む前に、必ず聖霊の導きを求め、祈ってから読んでみてください。

聖書には、自分の常識を超えなければ決して理解できないことがたくさんあります。これまで聞いてきたこと、常識として教えられてきたことが、真理の妨げになるのです。

これは無意識の中に存在する、目に見えない垣根です。これを取り払うことは、人にはできないことです。
だからこそ、聖霊の力にり頼む必要があるのです。

何もかも手放して読む

また、何もかも手放して聖書を読むことが大切です。

多くの場合、私たちは次のことを恐れながら聖書を読んでいます。

  • これまでの信念が崩れていくこと。

  • 所属するグループと違う考えを持ってしまうこと。

  • 自分が語ってきた内容を撤回しなくてはならなくなること。

これらを恐れるなら、決して真理に立つことはできません。

はっきり言いましょう。
今まで一度も聖書理解が変わっていない人は、おおよそ、今も間違った聖書理解をしています。

私たちが真理に立つには、日々自分の考えを聖書で上書きする必要があります。
これをしないでは、決して真理に立つことはできません。

このことは、教団、教派を出ることなしには、真理に立てないことをも意味しています。

人の顔色を見ない

もう一つ大切なことは、人の顔色を見ないことです。

確かに、仲の良い兄弟姉妹と同じ聖書理解に立つことは、私たちを幸せな気分にします。それを壊すことは、何よりも避けたいことです。

それでも、真理の帯を引き締めなければなりません。

たとえ周りの誰一人、自分と同じ聖書理解をしなくとも、心から聖霊に求め、聖書からはっきりと答えを見つけたなら、それをごまかしてはいけないのです。

とはいえ、他者の意見に耳を傾ける必要はあります。
私自身、それがきっかけとなって、真理に導かれることが何度もありました。

それでも、必ず聖書から確認しなくてはなりません。教えてもらった聖句だけでなく、それ以外の箇所もよく吟味して、結論を出すのです。

分かります。誰かの教えに従うほうが楽です。周りの意見に合わせるほうが楽です。そのほうが平安だし、問題も起こりません。

それでも、私たちは真理の側に立つ必要があるのです。
この点で、私は本当に孤独を感じることがあります。まるで荒野あらのに放り出されたような気持ちです。

しかし、この荒野の経験こそが、私たちに必要な経験であることを覚えてください。
しゅだけに頼る「本物の信仰者」となるには、荒野へ放り出される必要があるのです。

そのときには、どうか顔をあげてください。目の前には、しゅの足跡が続いているはずです。これこそが、しゅの通られた道だからです。

ヨハネの福音書
2:24 しかし、イエスご自身は、彼らを信用されなかった。それは、すべての人を知っておられ、
2:25 人について誰からも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人の心の中にあるかをよく知っておられたのである。

聖書協会共同訳

私の失敗

ここで、私の失敗をお話ししたいと思います。

初めのころ、私は「律法は廃された」と教えられ、その教えをみにしていました。

けれどさまざまな聖書解釈に触れるうち、各教会の聖書解釈が、てんでばらばらであることに気づいたのです。

それで私は、自分で聖書から学ぶ必要があることを覚えました。

そんなおり、次の聖句を見て、私はモーセ律法の最も小さな戒めの一つさえ、守らなければならないと思うようになりました。

マタイの福音書
5:18 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。
5:19 それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。

それでどうしたかと言えば、その確証を得たくて、「律法は廃されていない」という聖句を探し回ったのです。

結論から言えば、そのような聖書研究の仕方は、自分で自分を牢獄ろうごくに閉じ込めるようなものでした。

読みたいように読むなら、そう読める聖句はいくらでも見つかるのです。

ルカの福音書
16:17 しかし、律法の一画が落ちるよりは、天地の滅びる方が、もっとたやすい。

しかしどうでしょう。
これは本当に、モーセ律法のことを言っているのでしょうか。

ルカの福音書
16:18 すべて自分の妻を出して他の女をめとる者は、姦淫を行うものであり、また、夫から出された女をめとる者も、姦淫を行うものである。

これはモーセ律法とは明らかに異なります
なぜなら、モーセ律法には次のように書いてあるからです。

申命記
24:1 人が妻をめとって、結婚したのちに、その女に恥ずべきことのあるのを見て、好まなくなったならば、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせなければならない。

律法の構造

「モーセ律法は今も有効だ」そう考えている方に、お伝えしたいことがあります。

今、握りしめたものを、一度しゅの前に手放してみましょう。

「六百十三の戒律からなるモーセ律法は、十戒じっかいに要約され、十戒じっかいの十の戒めは、愛に要約される」

これはよくある説明です。美しい構図であり、もっともな意見に聞こえます。

しかし、冷静にならなければいけません。
モーセ律法は、決して十戒じっかいの詳細を書いたものではないのです。

マタイの福音書
19:7 彼らはイエスに言った、「それでは、なぜモーセは、妻を出す場合には離縁状を渡せ、と定めたのですか」。
19:8 イエスが言われた、「モーセはあなたがたの心が、かたくななので、妻を出すことを許したのだが、初めからそうではなかった
19:9 そこでわたしはあなたがたに言う。不品行のゆえでなくて、自分の妻を出して他の女をめとる者は、姦淫を行うのである」。

このように、モーセ律法は、十戒じっかいと対立することさえあるのです。
というのも、これは当時の慣習を優先させた律法だからです。

民数記
35:19 血の復讐をする者は、自分でその故殺人を殺すことができる。すなわち彼に出会うとき、彼を殺すことができる

「殺すな」という十戒じっかいに対し、モーセ律法は復讐や死刑を許可しています。

今、しっかりと真理をつかんでください。
イエス様は、モーセ律法よりも、十戒じっかいを守るようにと教えているのです。
十戒じっかいとモーセ律法が同じものであるとする説は、人の教えであって、聖書の教えではありません。

十戒じっかいとモーセ律法には決定的な違いがあります。
それは、
十戒じっかい「人と神との関係」を教えるものであるのに対し、
モーセ律法は「国家と神との関係」を教えるものであるということです。

土地や奴隷、復讐、死刑、割礼、服装、食べ物──
これは国家を想定して設計されたものであり、現代人が無理に行うものではないのです。

このことを、私は正しく受け入れる必要がありました。
モーセ律法は個人の罪を教えるものではなく、国家を想定して設計されており、救いが異邦人に及ぶまで、キリストを予表する影の役割を担っていたのです。

牢獄ろうごくからの脱出

読みたいように読んでいた私は、自分で自分を牢獄ろうごくに閉じ込めていました。

同じように、クリスチャン界隈には様々な牢獄ろうごくが存在します。
患難前携挙説、カトリックの教え、カルヴァンの予定説、無律法主義、フラットアース、預言者エレンホワイト──

そこから脱出するには、自分を低くして、幼子のように聖書を読み直すしかありません。

ガラテヤ人への手紙
3:19 それでは、律法はなんであるか。それは違反を促すため、あとから加えられたのであって、約束されていた子孫が来るまで存続するだけのものであり、かつ、天使たちをとおし、仲介者の手によって制定されたものにすぎない

ヘブル人への手紙
10:1 いったい、律法はきたるべき良いことの影をやどすにすぎず、そのものの真のかたちをそなえているものではないから、年ごとに引きつづきささげられる同じようないけにえによっても、みまえに近づいて来る者たちを、全うすることはできないのである。

これらの聖句を退けることは簡単です。
じっさい私も、そうやって真理を拒絶しそうになりました。

けれど感謝なことです。
聖霊によって打ち負かされた私は、最終的に、素直に御言葉みことばを受け入れることができたのです。

その結果、今は次のように理解しています。
国家としての律法は終わり、個人に救いが及んだ今は、十戒じっかいだけが人の心の板に書きつけられる。これに反することが罪であり、その罪を取り除くためにキリストが現れた。

この理由については、別の記事を参照してください。

誤解のないように言っておきますが、モーセ律法が無意味になったと言うのではありません。
それはであり、キリストについて何かを教えているからです。

この理解を得てからは、聖書のどんな箇所も、素直に読めるようになりました。
これを踏まえて、パウロの言動を見てみましょう。

パウロの言動

モーセ律法について、パウロは次のように書いています。

コロサイ人への手紙
2:16 だから、あなたがたは、食物と飲み物とにつき、あるいは祭や新月や安息日(注:十戒じっかいの安息日ではなく、モーセ律法の安息日)などについて、だれにも批評されてはならない。
2:17 これらは、きたるべきものの影であって、その本体はキリストにある

これらは来たるべきものの影であって、その本体はキリストにあるとパウロは言います。
ここで「食物と飲み物」に注目してみましょう。

これらは具体的に、何の影なのでしょうか。
私たちは本来、何を食べて、何を飲むべきなのでしょうか。

ヨハネの福音書
6:55 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。
6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。

これが、食物と飲み物の本体です。
一方、豚やねずみで表現されるけがれた食べ物とは、キリストでないものによって生きる異邦人の生活を象徴していました。

モーセ律法の役割は、として、このことを伝えることにあったのです。
やがて本体が現れたとき、この垣根は取り除かれ、律法は廃棄されました

エペソ人への手紙
2:14 キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、
2:15 数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである──

「異邦人とは食をともにできない」これは当時の常識でした。
しかし、キリストが現れ、本体であるご自身の肉を示すことによって、数々の規定からなる戒めの律法は廃棄されたのです。

これによって国家の中垣は取り除かれ、救いは個人に及ぶようになりました。

それでパウロは次のように書き送ったのです。

ローマ人への手紙
14:14 わたしは、主イエスにあって知りかつ確信している。それ自体、汚れているものは一つもない。ただ、それが汚れていると考える人にだけ、汚れているのである。
14:15 もし食物のゆえに兄弟を苦しめるなら、あなたは、もはや愛によって歩いているのではない。あなたの食物によって、兄弟を滅ぼしてはならない。キリストは彼のためにも、死なれたのである。

反対意見もあるでしょう。しかし安易に引きずられないでください。

「食物のゆえに兄弟を苦しめるなら、もはや愛によって歩いているのではない」そう書いてあります。
それでパウロはどうしたでしょうか。

コリント人への手紙 第一
9:21 律法のない人には──わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが──律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。

パウロは、救われる人を獲得するために、律法のない人のようになって、もはや隔ての壁がないことを身をもって示したのです。

これは非常に重要な態度です。
なぜなら、人をキリストと結び付けることこそ、何よりも大切なことだからです。

私たちが世の人々にモーセの戒律を見せつけるなら、その分だけ、彼らとの間に隔たりができてしまいます。そのために人々がキリストから離れてしまうなら、それは天にとって大損害です。

実際、「食物と飲み物」のために苦しんでいる人たちがたくさんいます。酒やタバコ、豚やエビのために、教会から遠ざかる人たちが大勢いるのです。
そんなことがあっていいのでしょうか──

パウロは律法のない人のようになりました。私たちはどうすべきでしょう。

「食物のゆえに兄弟を苦しめるなら、あなたは愛によって歩いているのではない」この精神を忘れないようにしましょう。

ところが、これに反対する人々もいました。

続・パウロの言動

使徒の働き
15:5 ところが、パリサイ派から信仰にはいってきた人たちが立って、「異邦人にも割礼を施し、またモーセの律法を守らせるべきである」と主張した。

当然と言えば当然ですが、「モーセ律法を守らせるべきだ」そう主張する人たちが現れたのです。

この結論は皆さんがご存じの通りです。

使徒の働き
15:20 ただ、偶像に供えて汚れた物と、不品行と、絞め殺したものと、血とを、避けるようにと、彼らに書き送ることにしたい。

注意したいのは、これはモーセ律法に関しての結論であって、十戒じっかいに関する結論ではないことです。決して、殺してよくなった、姦淫かんいんしてよくなったというのではありません。安息日も同様です。

さて、この結論が出たにもかかわらず、ある日、ペテロやバルナバが人々の顔色を見て行動を変える事件が起きました。

ガラテヤ人への手紙
2:12 というのは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、彼(ペテロ)は異邦人と食を共にしていたのに、彼らがきてからは、割礼の者どもを恐れ、しだいに身を引いて離れて行ったからである。
2:13 そして、ほかのユダヤ人たちも彼と共に偽善の行為をし、バルナバまでがそのような偽善に引きずり込まれた。

そのとき、パウロはどうしたでしょうか。

ガラテヤ人への手紙
2:14 彼らが福音の真理に従ってまっすぐに歩いていないのを見て、わたしは衆人の面前でケパ(ペテロ)に言った、「あなたは、ユダヤ人であるのに、自分自身はユダヤ人のように生活しないで、異邦人のように生活していながら、どうして異邦人にユダヤ人のようになることをしいるのか」。

異邦人と食をともにし、異邦人のように生活していながら、突然ユダヤ人のようになることをしいたペテロに対し、パウロは人々の面前で彼を責めたのです。

このようにパウロは、モーセ律法をしいることに対し、厳格な態度を保っていたことを覚えてください。

その結論を、パウロは次のように簡潔に述べています。

コリント人への手紙 第一
7:19 割礼があってもなくても、それは問題ではない。大事なのは、ただ神の戒め(十戒じっかい)を守ることである。

皆さんはこれをどう受け取るでしょうか。
ただ割礼だけについての言葉だと思うでしょうか。
それとも、律法全体についての言葉だと思うでしょうか。

皆さんが素直な答えを出せますように、お祈りしています。

けがれたものが、あとからきよいとされることなどあるのか

最後に、この問題について確認してみたいと思います。
一体、神様がけがれていると宣言されたものを、あとからきよとされることなどあり得るのでしょうか。

はい。私たちが、まさにそれです。

使徒の働き
10:11 すると、天が開け、大きな布のような入れ物が、四すみをつるされて、地上に降りて来るのを見た。
10:12 その中には、地上の四つ足や這うもの、また空の鳥など、各種の生きものがはいっていた。
10:13 そして声が彼に聞えてきた、「ペテロよ。立って、それらをほふって食べなさい」。
10:14 ペテロは言った、「主よ、それはできません。わたしは今までに、清くないもの、汚れたものは、何一つ食べたことがありません」。
10:15 すると、声が二度目にかかってきた、「神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない」

神様は、けがれた異邦人であった私たちを、清めてくださったのです。
これこそ、モーセ律法が伝えたかったことです。

「いや、これは異邦人に救いが及ぶことを伝えているだけであって、食べ物は関係ない」そう叫ぶことも私はできたでしょう。

しかし、しゅ「食べなさい」と言ったのです。

どうか、素直に読んでみてください。
食物の教え異邦人の救いはつながっているのです。食物は影であり、本体はキリストだと書かれているとおりです。

食物によって隔てられていた国家の壁が、キリストの血と肉によって廃されたのです。
こんなにも分かりやすい神様の教えを、どうして素直に受け取らない理由があるでしょうか。

私は握りしめていたものを手放して、これを素直に受け取りました。
モーセ律法が廃されていないという考え方は、どうやっても無理のある考え方でした。

その上で言いますが、食物規定を守ることを、私は否定しません。
それは人によると書いてあるからです。

ローマ人への手紙
14:22 あなたの持っている信仰を、神のみまえに、自分自身に持っていなさい。自ら良いと定めたことについて、やましいと思わない人は、さいわいである。
14:23 しかし、疑いながら食べる者は、信仰によらないから、罪に定められる。すべて信仰によらないことは、罪である。

ただ、このことには気をつけてください。
食物のことは、断食と同じように、人に知られないように行うべきです。

「モーセの律法を守らせるべきである」と主張した人々に対し、何が言い渡されたかを忘れてはいけません。
この結論を無視するなら、人々を教会から遠ざけることになるでしょう。

どうか、お一人お一人が、愛と真実をもって行動されますように。

おわりに

私たちは一人ひとり、手放すべき様々な課題を握りしめています。

「先に聞いた教え」「長く信じた教え」に縛られる人々の姿を、私はたくさん目撃してきました。

自分だけはそんなことはない。誰もがそう思うのです。私もそうでした。
そうやって、今も牢獄ろうごくに閉じ込められている人がたくさんいます。

読みたいように読み続けるなら、その牢獄ろうごくはどんどん強固なものになっていくでしょう。
同調する仲間だけで集まり続けるなら、真理はますます見えなくなっていくでしょう。

この牢獄ろうごくから抜け出すには、荒野あらのへ出て、身を低くするしかありません。

「私は間違っていたのかもしれません、しゅよ、何も知らない私に、もう一度教えてください」
そう祈る人にこそ、真理が与えられるのです。

これは孤独な戦いとなるでしょう。
「一致がないなら、それは聖霊の働きではない」何度そう言われることでしょう。

しかし思い出してください。
イエス様は、まさにその道を通って行かれたのです。

真理は多数決で決まるものではありません
どうか、荒野へ出てください。寂しい所で祈ってみてください。
自分が絶対だと思うことを、一度手放すのです。同調する仲間を、一度手放すのです。

強くあれ。雄々しくあれ。あなたにはそれができます。しゅがその力をくださいます。

どんなことでも手放して、幼子のように聖書に立ち返りましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。

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