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安息日を守らせまいとする力
はじめに
安息日が十戒に含まれていることを知らないクリスチャンは、ほとんどいないと思います。
にもかかわらず、安息日を守らなかったり、守ろうとする人を攻撃する人が多いのはなぜでしょう。
「殺すな」「姦淫するな」「盗むな」などに対して、攻撃する人はいません。
それなのになぜ、「安息日」に関してだけは、目くじらを立てて怒りだすのでしょうか。
これには理由があります。
ご一緒に確認してみましょう。
安息日への攻撃
安息日を攻撃する人のほとんどが、次の聖書箇所を持ち出すことでしょう。
ローマ人への手紙
14:2 ある人は、何を食べてもさしつかえないと信じているが、弱い人は野菜だけを食べる。
14:3 食べる者は食べない者を軽んじてはならず、食べない者も食べる者をさばいてはならない。神は彼を受けいれて下さったのであるから。
14:4 他人の僕をさばくあなたは、いったい、何者であるか。彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである。しかし、彼は立つようになる。主は彼を立たせることができるからである。
14:5 また、ある人は、この日がかの日よりも大事であると考え、ほかの人はどの日も同じだと考える。各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである。
14:6 日を重んじる者は、主のために重んじる。また食べる者も主のために食べる。神に感謝して食べるからである。食べない者も主のために食べない。そして、神に感謝する。
なぜ、断食日について書かれた箇所を持ち出してまで、安息日を攻撃しなければならないのでしょうか。
それは、安息日が廃されたという聖句が、どこにもないからです。
モーセ律法に属する「割礼」や「食物規定」に関しては、そのような記述がきちんとあります。
しかし、十戒に属する「安息日」に関しては、そのような記述はどこを探してもありません。
これが大きな怒りを引き起こす理由です。
聖書から証明できないので、つい感情的になってしまうのです。
しかしそうまでして、主が造られた安息日を攻撃しなければならない理由があるのでしょうか。
その理由は、以下の三つに集約されるでしょう。
一つ目、日曜礼拝を擁護するため。
二つ目、束縛されないため。
三つ目、コミュニティーに依存するため。
それぞれ詳しく見てみましょう。
一つ目 日曜礼拝を擁護するため
多くのクリスチャンが、日曜礼拝が間違いだと指摘されないために、安息日を攻撃しなければと思ってしまいます。
たとえば次の箇所を持ち出して、初代教会が日曜礼拝を行っていたとまで言うのです。
使徒の働き
20:7 週の初めの日に、わたしたちがパンをさくために集まった時、パウロは翌日出発することにしていたので、しきりに人々と語り合い、夜中まで語りつづけた。
これは「ある日曜日のこと」と言っているに過ぎません。
持ち出すなら、次の聖句です。
ルカの福音書
23:55 イエスと一緒にガリラヤからきた女たちは、あとについてきて、その墓を見、またイエスのからだが納められる様子を見とどけた。
23:56 そして帰って、香料と香油とを用意した。それからおきてに従って安息日を休んだ。
弟子たちが休んだのは、復活の前日、土曜日です。
次の箇所も同様です。
コリント人への手紙 第一
16:2 一週の初めの日ごとに、あなたがたはそれぞれ、いくらでも収入に応じて手もとにたくわえておき、わたしが着いた時になって初めて集めることのないようにしなさい。
安息日に集金する人などいません。
週の初めに義援金を集めなければならなかったのは、弟子たちが安息日を休んだからです。
日曜礼拝は、聖書にない習慣です。
それを行うことは個人の自由ですが、安息日を攻撃する必要はありません。
二つ目 束縛されないため
安息日は、私たちの愛する婚約者が「何もかも休んで一緒に過ごそう」と提案してくれた日です。
これを「負いきれない軛」などと言う人がいるでしょうか。
サタンはこの日を「束縛の日」だと思わせてきました。
律法学者やパリサイ人を使って、様々な束縛を追加したのです。
それで今や、安息日にはエレベーターのボタンも押せない始末です。
しかしこれは、聖書の教えではないことを覚えてください。
主はただ、その日を祝日にして、一緒に過ごそうと言ってくれただけなのです。
「何もしてはいけない日」ではありません。
「主とともに自由に過ごす日」です。
罪の束縛から抜け出し、世の煩いから逃れて、自然を楽しんだり、讃美歌を歌ったり、礼拝をしたり、主に話しかけたり、たくさんのことをしましょう。
私たちにとって、この日は本当の祝日なのですから。
三つ目 コミュニティーに依存するため
多くのクリスチャンは、地方教会のコミュニティーに属しています。
もし安息日を守ろうとするなら、そのコミュニティーから異物のような扱いを受けるかもしれません。
下手をすると、そこから出なくてはならない事態になるでしょう。
それが怖くて、安息日を受け入れられないのです。
確かに、これはクリスチャンにとって大きな試練です。
しかし、乗り越えるべき壁であると言うしかありません。
ルカの福音書
14:26 「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。
イエス様を思い出してください。
主流派の教えに立ち向かって、最後まで神の御心を忠実に行ったのです。
その働きがなければ、誰も真理に立ち返ることはなかったでしょう。
主を見習い、勇気を得てください。
あなたが立ち上がるなら、ほかの誰かを真理に導けるかもしれないのです。
新約との関係
安息日を無視するのは、十戒全体を無視することだと聖書は教えます。
ヤコブの手紙
2:10 なぜなら、律法をことごとく守ったとしても、その一つの点にでも落ち度があれば、全体を犯したことになるからである。
2:11 たとえば、「姦淫するな」と言われたかたは、また「殺すな」とも仰せになった。そこで、たとい姦淫はしなくても、人殺しをすれば、律法の違反者になったことになる。
誤解のないよう言っておきますが、私たちは律法の行いによって救われるのではありません。
律法を行えるようにしていただくこと、それが救いなのです。
ヘブル人への手紙
8:10 わたしが、それらの日の後、イスラエルの家と立てようとする契約はこれである、と主が言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつけよう。こうして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう。
律法が思いの中にないなら、新約を受けてはおらず、神の民となっていないことに注意してください。
律法に同意しない人に、神様はむりやり契約を押しつけることはしないのです。
「私はイスラエルではないから」
「安息日には別のことをしたいから」
そう言って、この契約を断ってはいないでしょうか?
本当に、それで後悔しませんか?
おわりに
サタンは、安息日を守らせまいと必死に働いています。
これに騙されてはいませんか?
あなたにはまだ、神様に忠実でありたいと思う心があるでしょうか。
それなら、どの日も同じとか、日曜日がいいなどとは言わないはずです。
創世記
2:2 神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。
2:3 神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。
第七日、それが神様の聖別された日です。
新約聖書では、それは復活の前日であると記されています。
これに逆らう本当の理由は何でしょうか。
今、心を開いて、主と相談してみてください。
このブログはきっかけを与えるものであり、間違いのないものではありません。
人の教えではなく、聖書を確認しましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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