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旧約時代の救い

はじめに

聖書には次のようにあります。

ヨハネの福音書
14:6 イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない

また、こうもあります。

使徒の働き
4:12 この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。

イエス・キリストによらない救いは、この世に存在しません。

すると、旧約時代の人はどうなるのでしょうか。

これはとても大切なことですから、ご一緒に聖書を確認してみましょう。

神は唯一

テモテへの手紙 第一
2:5 神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。

神は唯一、これは聖書の大切な真理です。
その唯一の神が、人となって来られたのです。
それは、神なるイエスが、人なるイエスを産んだともいえます(ヘブル5:5)。

ピリピ人への手紙
2:6 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、
2:7 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた──

人となって来られても、神の遍在(どこにでも同時に存在できる性質)がなくなることはありません。
それでイエス様は、天におられる遍在を「父」と呼びました。
人となったからには、神を神として崇める必要があるからです。

聖霊も同様です。

コリント人への手紙 第二
13:5 あなたがたは、はたして信仰があるかどうか、自分を反省し、自分を吟味するがよい。それとも、イエス・キリストがあなたがたのうちにおられることを、悟らないのか。もし悟らなければ、あなたがたは、にせものとして見捨てられる。

私たちのうちにおられる聖霊がイエス・キリストであることを悟らないなら、にせクリスチャンとして見捨てられてしまいます。

神がたくさんいるのではありません。神は唯一です。
まずは、旧約時代の神様は、イエス・キリストであることを覚えてください。

アブラハムの救い

アブラハムは、どのようにして、イエス・キリストから義と認められたのでしょうか。

創世記
15:6 アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた。

私たちと同じく、イエス・キリストを信じたことで、義と認められたのです。
これは、アブラハムが「新しい契約」によって救いの道に入ったことを意味します。

旧約時代の救いは「律法の行いによる救い」だと考えがちですが、そうではないのです。

ガラテヤ人への手紙
3:11 そこで、律法によっては、神のみまえに義とされる者はひとりもないことが、明らかである。なぜなら、「信仰による義人は生きる」からである。

今も昔も、律法によって義とされる者は一人もないのです。

「イエス・キリストを信じる者が救われる」
これが、私たち人類に与えられた唯一の救いであることを覚えてください。

「古い契約」と「新しい契約」

古い契約は、旧約時代の契約であり、新しい契約は、新約時代の契約である」
このように考えてしまいがちですが、それは間違いです。

「古い契約」とは、私たち全員が、神と最初に交わす契約のことです。
そして「新しい契約」とは、「古い契約」では救われないと悟った私たちが、次に神と交わす契約のことです。

そうです、私たちは「古い契約」すなわち「律法の行いによる義」からスタートする必要があるのです。

兄弟を憎むなら人殺しであり、情欲の目で見るなら姦淫かんいんである。
これがキリストの律法です。
互いへのアガペーをもって、十戒じっかいを全うせよというのです。

ローマ人への手紙
13:8 互に愛し合うことの外は、何人にも借りがあってはならない。人を愛する者は、律法を全うするのである。
13:9 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」など、そのほかに、どんな戒めがあっても、結局「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」というこの言葉に帰する。

この律法は、神の指によって書かれた永遠の原則であり、モーセ律法とは区別されます。

まずはこの基準に心から服従し、守ることが大切です(ローマ6:17)。
そうして自分には守る力がないと徹底的に悟ったとき、ようやく私たちはキリストのもとにたどり着くのです。

ガラテヤ人への手紙
3:24 このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。

この手順を踏んでおらず、養育係の世話になったことのないクリスチャンが大勢います。

重荷を負っていない人は、「新しい契約」に招かれていません。
あの取税人のように、心から律法に服従し、自分にはそれを守る力がないことを嘆き悲しむ人だけが、義とされて家に帰るのです(ルカ18:10)。

あなたはこの手順を踏んで、キリストにたどり着いているでしょうか。

アブラハムの信仰

信仰とは、神様を信頼し、どこまでも忠実に従うことです。

「人にはできなくとも、神様には何でもおできになる」このことを信じていますか?

信じているなら、その信仰で、キリストの律法を全うできるはずです。

ローマ人への手紙
3:31 すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである

これこそが、アブラハムの信仰であり、業です。

ヨハネの福音書
8:39 ──イエスは彼らに言われた、「もしアブラハムの子であるなら、アブラハムのわざをするがよい
8:40 ところが今、神から聞いた真理をあなたがたに語ってきたこのわたしを、殺そうとしている。そんなことをアブラハムはしなかった

アブラハムは、けっして兄弟を憎むことをせず、心においても十戒じっかいを守る者でした。

モーセより前は、誰もキリストの律法を守っていなかった、そんな勘違いを、私たちは払拭する必要があります。

創世記
26:5 アブラハムがわたしの言葉にしたがってわたしのさとしと、いましめと、さだめと、おきてとを守ったからである」。

これが聖書の伝える真実です。

アブラハムはキリストの律法を守る者でした。
自分の力で守ったのではありません。
信仰により、神の力によって、律法を守ったのです。

この信仰に倣う人だけが、救いの約束にあずかると聖書は教えています。
このことを、しっかりと心に刻んでください。

おわりに

旧約時代も、新約時代も、救いの方法は変わりません
イエス・キリストを信じる信仰によって、私たちは救われます。

その信仰が生きているかどうかは、私たちが罪を離れ、義に生きているかどうかで確かめられます。なぜなら、これは救い主の力によって、必ずなされることだからです。

そのためにも、律法という養育係によって、キリストのもとに連れて行ってもらう必要があります。律法を守らないでは、心の底から救い主の必要を感じることはできないからです。

「律法の要求を満たしたいのに、私にはその力がありません。
 神様、助けてください。あなたにはその力があると信じます」

このような人に、「新しい契約」が与えられるのです。

その「新しい契約」とは、心に律法が書き付けられ、思いが律法と一致するようになることです(ヘブル8:10)。そうして、もはや文字によらず、霊の導きによって、神に仕えるようになるのです。

それなのに──

「律法に目を向けさせる教えは、にせの教えだ!」
「苦しいクリスチャン生活になるだけだ!」
そのように叫ぶ人たちがいます😢

それは、本当の救いを体験していないからです。

本物のクリスチャンは、喜んで律法に従っています。心に律法が書き付けられ、本心が御心みこころ一致しているので、守らずにいられないのです。
こうして世から分離され、地上にいながらも、天の住人となるのです。

これこそが、本当の十字架の力です!
信じる者は、間違いなく、罪から救い出されます

これを信じず、受け取っていないことは、本当に悲しいことです😢

受け取りましょう。
新しく生まれた人と、いまだ悪魔に属する人の区別は、このことによって明らかです。

ヨハネの手紙 第一
3:7 子たちよ。だれにも惑わされてはならない。彼が義人であると同様に、義を行う者は義人である。
3:8 罪を犯す者は、悪魔から出た者である。悪魔は初めから罪を犯しているからである。神の子が現れたのは、悪魔のわざを滅ぼしてしまうためである。
3:9 すべて神から生れた者は、罪を犯さない。神の種が、その人のうちにとどまっているからである。また、その人は、神から生れた者であるから、罪を犯すことができない。
3:10 神の子と悪魔の子との区別は、これによって明らかである。すなわち、すべて義を行わない者は、神から出た者ではない。兄弟を愛さない者も、同様である。

正しい教えに従わなくては、正しい門にたどり着くことはありません。

間違った教えを手放して、聖書に立ち返りましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。

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