私たちの聖書は、原典と同じなのか
はじめに
聖書の原典は、残念ながら残っていません。
パピルスや羊皮紙に書かれたものは、時間がたつと朽ちていくからです。
新約聖書も同様です。
現在、地上に存在する聖書は、すべて写本から作られたものです。
写本から作られたギリシャ語の新約聖書としては、以下の二つが有名です。
・NA聖書(ネストレ・アーラント)
1898年に出版
多くの写本を参考に作られた
・TR聖書(テクストゥス・レセプトゥス、公認本文)
1516年に出版(最初に出版されたギリシャ語新約聖書)
ビザンティン型の写本を元に作られた
日本語のほとんどの聖書は、NAをもとに翻訳されています。
この二つの聖書には、互いに異なる箇所があり、TRが間違っているという人もいれば、NAが間違っているという人もいます。
これを聞いて、「はたして自分は正しい聖書を読んでいるのか」と心配する人もいるでしょう。
結論から申し上げますと、確かに違いはありますが、救いを左右するような致命的な改ざんは、どちらにもないように感じます。
もちろん、聖書の御言葉を正しく伝えることは大切であり、原典との違いは些細なことではありません。
とはいえ、神様は世界を傍観しているのではなく、私たちを救おうと積極的に介入しておられることを、クリスチャンなら肌で感じていることでしょう。
その神様が、聖書の真理を守らないはずはありません。聖書に致命的な改ざんがなされるのを見過ごしておきながら、「なぜそんな聖書を信じたのか」と怒るような方ではないのです。
私たちが人の教えではなく、神の教えを求めるとき、わざわざおかしな聖書を手にするのでない限り、安心していいのです。それは、神様が守られた聖書です。
安心したところで、どのような違いがあるのかを、少し見てみましょう。
固有名詞の綴り
たとえばダビデの綴りは、それぞれ次のようになっています。
NAは「Δαυίδ」
TRは「Δαβίδ」
全体がこの綴りで統一されているので、意図的であることは間違いありません。
では、どちらが原典の綴りと同じなのでしょうか。
わかりません。
ただ事実だけを述べるなら、
NAのほうがヘブライ語の発音に近く、
TRのほうが現代ギリシャ語に近いです。
またカペナウムの綴りは、それぞれ次のようになっています。
NAは「Καφαρναουμ」
TRは「Καπερναοὺμ」
やはりNAのほうがヘブライ語の発音に近く、
TRのほうが現代ギリシャ語に近いです。
片方にだけ存在する文
NAにはないのに、TRにだけ存在する文がいくつかあります。
ここから、以下の二つの可能性が考えられます。
・原典から意図的に文が消された。
・原典へ意図的に文が追加された。
どちらなのかはわかりません。
全体の印象としては、TRのほうがわかりやすくなっている印象を受けます。
異なる文
NAとTRで異なっている文がいくつかあります。
ここから、以下の二つの可能性が考えられます。
・原典を意図的にわかりづらくした。
・原典を意図的にわかりやすくした。
どちらなのかはわかりません。
やはり全体の印象としては、TRのほうがわかりやすくなっている印象を受けます。
とはいえ、白い衣を着ることは、罪から清くなることを指すので、着物を洗うことと、戒めを行うことは、意味的には変わりません。
昔の神学者はTRを使っていた
マルティン・ルターをはじめ、昔の多くの神学者が、NAではなく、TRを採用したかのように印象操作をする人を見かけます。
しかし中立な立場で書いておきますと、ルターらはNAとTRを比較してTRを選んだのではありません。
当時はTRしかなかったので、TRを使っただけです。
KJV(King James Version、欽定訳聖書)がTRを元にした理由も同様です。
ですから、「誰が使っていたか」で信憑性の判断はできないことに注意してください。
怪しげな写本
写本の中には、シナイ写本やバチカン写本などの怪しげなものもあります。
TRを推進する人々は、NAがこれらの写本からできているかのような印象操作をすることがあります。
しかし中立の立場で書いておきますと、NAはできる限り多くの写本を収集し、違いを精査した上で、信憑性のある単語を採用しています。
シナイ写本やバチカン写本だけに登場する単語は、除外されていることでしょう。
その反対に、TRは、ビザンティン型の写本にしか出てこない単語を、比較検討なしにそのまま採用しています。
どちらが正しいのかはわかりませんが、印象操作に気をつける必要はありそうです。
おわりに
聖書の原典は残っていませんが、心配する必要はありません。
聖書は、いつも主に信頼し、平安を得るようにと教えているではありませんか。
神様は、パンを求める者に石を与えるような方ではありません。
聖書の在り方も含めて、すべては神様のご計画によるものです。
ですから、安心して聖書から真理を求めましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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