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来たるべきものの影
はじめに
聖書は、ある律法のことを「来たるべきものの影」と呼んでいます。
とはいえ、殺すな、姦淫するな、などの教えを、「来たるべきものの影」と考えるクリスチャンはいないと思います。
では一体何が、「来たるべきものの影」なのでしょうか。
このことについて、私たちは正確に理解する必要があります。
来たるべきものの影
聖書は、どの律法を「影」と呼んでいるのでしょうか。
結論から言うと、モーセ律法の儀式を、キリストの影と呼んでいるのです。
ヘブル人への手紙
10:1 いったい、律法はきたるべき良いことの影をやどすにすぎず、そのものの真のかたちをそなえているものではないから、年ごとに引きつづきささげられる同じようないけにえによっても、みまえに近づいて来る者たちを、全うすることはできないのである。
10:2 もしできたとすれば、儀式にたずさわる者たちは、一度きよめられた以上、もはや罪の自覚がなくなるのであるから、ささげ物をすることがやんだはずではあるまいか。
(途中省略)
10:9 ──彼は、後のものを立てるために、初めのものを廃止されたのである。
10:10 この御旨に基きただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによって、わたしたちはきよめられたのである。
このとおり、モーセ律法のささげ物は影であり、キリストを予表するものに過ぎないことが教えられています。
本体はキリスト
キリストは天の聖所で大祭司の働きをしており、地上の幕屋や儀式は、その雛形と影に過ぎないのだと聖書は教えます。
ヘブル人への手紙
8:1 以上述べたことの要点は、このような大祭司がわたしたちのためにおられ、天にあって大能者の御座の右に座し、
8:2 人間によらず主によって設けられた真の幕屋なる聖所で仕えておられる、ということである。
(途中省略)
8:4 そこで、もし彼が地上におられたなら、律法にしたがって供え物をささげる祭司たちが、現にいるのだから、彼は祭司ではあり得なかったであろう。
8:5 彼らは、天にある聖所のひな型と影とに仕えている者にすぎない──
このとおり、モーセ律法の儀式を「影」と呼び、地上の幕屋を天の聖所の「雛形」と呼んでいるのです。
さて、本体である天の聖所には、何が置かれているでしょうか。
ヨハネの黙示録
11:19 そして、天にある神の聖所(ナオス)が開けて、聖所の中に契約の箱が見えた。また、いなずまと、もろもろの声と、雷鳴と、地震とが起り、大粒の雹が降った。
神の聖所(ナオス)に置かれた契約の箱
地上の幕屋や神殿と同じく、神の聖所(ナオス)にも契約の箱が置かれています。
もちろん、その中に収められているのは、神の原則である十戒です。
これは本体ですから、十戒を「影」と呼ぶことはできません。
だからこそ、殺すな、姦淫するななどの教えが有効なのです。
そして聖書によれば、私たちの体もまた、神の聖所(ナオス)なのです。
コリント人への手紙 第一
3:16 あなたがたは神の宮(ナオス)であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。
この聖所(ナオス)にも、十戒は収められているのでしょうか。
もちろんそうです。
ヘブル人への手紙
8:10 わたしが、それらの日の後、イスラエルの家と立てようとする契約はこれである、と主が言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつけよう。こうして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう。
神の宮(ナオス)と呼ばれる場所には、例外なく十戒があり、神の御霊が住まわれることを覚えてください。
安息日
「来たるべきものの影」には、食物規定や祭りなどと一緒に、安息日という言葉が連なります。
コロサイ人への手紙
2:16 だから、あなたがたは、食物と飲み物とにつき、あるいは祭や新月や安息日などについて、だれにも批評されてはならない。
2:17 これらは、きたるべきものの影であって、その本体はキリストにある。
かつての私は、この聖句を見て、鬼の首を取ったかのように
「ほら見ろ、安息日もまた、影に過ぎないのだ!」
と豪語していました。
しかし、文脈を無視してはいけません。
これらは明らかに、モーセ律法について述べられたことです。
知らない人は、知ってください。十戒の安息日とは別に、モーセ律法にも安息日があるのです。
レビ記
23:24 「イスラエルの人々に言いなさい、『七月一日をあなたがたの安息の日とし、ラッパを吹き鳴らして記念する聖会としなければならない。
23:25 どのような労働もしてはならない。しかし、主に火祭をささげなければならない』」。
モーセ律法には、ラッパの祭り、種なしパンの祭り、仮庵の祭りの開始と終わりなど、年に七回の安息日があります。
この安息日と、十戒の安息日が重なる日は、大いなる安息日と呼ばれます。
ヨハネの福音書
19:31 その日は備え日であり、翌日の安息日は大いなる日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に死体が十字架の上に残らないようにするため、その脚を折って取り降ろしてほしいとピラトに願い出た。
このことを知らずに豪語していた私は、自分の無知と傲慢さを、周囲にさらしていたに過ぎなかったのです。
罪の奴隷
かつての私が、安息日に噛みついていた理由は、日曜礼拝を擁護するためにほかなりません。
同じことをしている方が、大勢おられるはずです。
ここで知ってください。
殺人や姦淫が罪であるように、安息日を汚すことは罪であり、十戒に背くことは不法です。
ヨハネの手紙 第一
3:4 罪を犯している者はみな、律法に違反しています。罪とは律法に違反することです。
マタイの福音書
7:23 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。
もう、こんなことを続けてはいけません。
ヘブル人への手紙
10:26 もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。
10:27 ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。
私たちは、主が歩かれたように歩く必要があります。
ルカの福音書
4:16 それからお育ちになったナザレに行き、安息日にいつものように会堂にはいり、聖書を朗読しようとして立たれた。
安息日の廃止を告げる聖句など、どこにもないのです。
それどころか、安息日は、神の民のためにまだ残されていると聖書は教えます。
ヘブル人への手紙
4:9 こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。
4:10 なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。
おわりに
「来たるべきものの影」とは何か、おわかりいただけたでしょうか。
それは、モーセ律法の儀式であり、本体はキリストです。
本体であるキリストは、今、天の聖所で大祭司の働きを行っています。
十戒を前に、私たちの執り成しをしておられるのです。
このことを正しく理解すると、本当に聖書が読みやすくなります。
マルコの福音書
10:17 イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄り、みまえにひざまずいて尋ねた、「よき師よ、永遠の生命を受けるために、何をしたらよいでしょうか」。
10:18 イエスは言われた、「なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない。
10:19 いましめはあなたの知っているとおりである。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。欺き取るな。父と母とを敬え』」。
コリント人への手紙 第一
7:19 割礼があってもなくても、それは問題ではない。大事なのは、ただ神の戒めを守ることである。
マタイの福音書
5:19 それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。
とはいえ、これらの忠告を受け入れられない人の心も、痛いほどよくわかります。
かつての私がそうだったからです。
私たち教会は、何百年ものあいだ、日曜礼拝を行ってきました。
少し前までは、「日曜日が安息日である」としつつ、十戒はかろうじて保持されていました。
けれど、聖書研究が進むにつれて、安息日が復活の前日であり、間違いなく金曜の日没から土曜の日没までであることがわかると、私たちは十戒を捨てる道を選んだのです。
これが事実であることは、皆、わかっているはずです。
それならどうしますか。
答えは一つしかありません。
悔い改めるのです。
創世記
2:2 神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。
2:3 神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。
世の初めからある「神の原則」に従うことは、私たちに本当の喜びをもたらします。
火が使えなくなる、風呂に入れなくなる、エレベーターのボタンが押せなくなる、そんな心配をする必要はありません。
それは、あとから加えられたモーセ律法と、パリサイ人の言い伝えに属するものです。
それよりも、父の御心は何であるかに目を向けてください。
あなたは、天国で、ずっと神様とともに過ごしたいですよね。
それなら、この地上においても、安息日をそのように過ごせばいいのです。
仕事が心配ですか? 人の目が気になりますか?
「安息日を休みたい」と願い求める人たちは、皆、神様によって新しい生活へと導かれています。
まずは、主を信頼し、求めるところから始めてみませんか?
何もかも捨てて、主の御心を聖書から見つけましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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