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やさしく解説「ガラテヤ人への手紙」
はじめに
ガラテヤ人への手紙は、私たちがどのようにして義とされるのかを教えてくれる、有益な書物です。
その一方で、誤解や曲解を生みやすい書物でもあります。
正しく読むには、聖書のほかの箇所と一致した読み方をしなければなりません。
ご一緒に確認してみましょう。
律法を行うことで義とされる?
この手紙は、ガラテヤ諸教会の人々が、偽の福音に惑わされてしまったことから始まります。
その偽の福音とは、
「人は律法(ことに割礼)を行うことによって義とされる」という教えです。
それでパウロは、自分が「無割礼の者への使徒」であることを説明し、人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によるのだと書き送ったのです。
ガラテヤ人への手紙
2:16 人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである。
律法の行いによって義とされる人は、一人もいないのです。
「律法の行いによって義が得られる」という考え方は、「キリストなど必要ない」というのと同じです。
ガラテヤ人への手紙
2:21 わたしは、神の恵みを無にはしない。もし、義が律法によって得られるとすれば、キリストの死はむだであったことになる。
律法の行いがなくても義とされる?
ここでさっそく、一つの曲解が生まれてきます。
それは、「律法の行いがなくても義とされる」という曲解です。
これは大変危険な曲解ですので、本当に注意してください。
パウロは「律法の行いによって義とされることはない」と言っているのであって、「律法の行いがなくても義とされる」とは言っていません。
この曲解については、「滅びることになる」と聖書は警告しています。
ペテロの手紙 第二
3:16 その手紙でパウロは、ほかのすべての手紙でもしているように、このことについて語っています。その中には理解しにくいところがあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の箇所と同様、それらを曲解して、自分自身に滅びを招きます。
この曲解を防ぐために、弟子たちは総力を挙げて警告しています。
ヤコブの手紙
2:24 これでわかるように、人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない。
ヨハネの手紙 第一
3:7 子たちよ。だれにも惑わされてはならない。彼が義人であると同様に、義を行う者は義人である。
もちろん、パウロの意見も同じです。
ローマ人への手紙
3:31 すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである。
「信仰は、断じて律法を無効にするものではなく、律法を確立する手段である」そうパウロが教えていることを、決して忘れてはいけません。
「律法の下にいない」の意味
ガラテヤ人への手紙
3:23 しかし、信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視されており、やがて啓示される信仰の時まで閉じ込められていた。
3:24 このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。
3:25 しかし、いったん信仰が現れた以上、わたしたちは、もはや養育掛のもとにはいない。
「律法の下にいない」とか「律法から解放された」という言葉を、あなたはどのように理解しているでしょうか。
ある人は、「もはや律法を守る必要がなくなった」と解釈します。
すなわち、「もはや罪を犯してもよくなった」ということです。
はたして、それが正しい解釈でしょうか。
ローマ人への手紙
7:6 しかし今は、わたしたちをつないでいたものに対して死んだので、わたしたちは律法から解放され、その結果、古い文字によってではなく、新しい霊によって仕えているのである。
律法から解放されたパウロは、文字によってではなく、霊によって仕える者になったと書いています。
霊によって、「何に」仕える者となったのでしょうか。
ローマ人への手紙
7:25 わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。
霊によって、神の律法に仕える者となったのです。
このように、律法からの解放とは、文字どおりに律法を守ることから解放され、霊によって律法を守るようになることを指します。
律法の文字は何のためにあるのか
テモテへの手紙 第一
1:9 すなわち、律法は正しい人のためにあるのではなく、不法な者や不従順な者、不敬虔な者や罪深い者、汚れた者や俗悪な者、父を殺す者や母を殺す者、人を殺す者、
1:10 淫らな者、男色をする者、人を誘拐する者、噓をつく者、偽証する者のために、また、そのほかの健全な教えに反する行為のためにあるのです。
文字は、従わない人のためにあります。
すなわち、心が律法の精神から離れているうちは、文字による監視が必要だと言うことです。
たとえば割礼は、その人が神の民として生きることを忘れないように規定されました。
大切なのは、割礼そのものではなく、神の民として生きることです。
ですから、神の戒めを守って、神の民として生きるなら、それ自体が割礼とみなされるのです。
ローマ人への手紙
2:26 だから、もし無割礼の者が律法の規定を守るなら、その無割礼は割礼と見なされるではないか。
(途中省略)
2:28 というのは、外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上の肉における割礼が割礼でもない。
2:29 かえって、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、また、文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、そのほまれは人からではなく、神から来るのである。
このように、律法の意図を実践できているなら、文字によって仕える必要はないのです。
むしろその人は、文字どおりの守り方から解放され、愛によって律法を全うできるようになります。
これを聖書は、「自由の律法」とか、「キリストの律法」と呼びます。
そして主は、このようにして律法に仕えていました。
マタイの福音書
5:27 『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:28 しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
マタイの福音書
12:11 イエスは彼らに言われた、「あなたがたのうちに、一匹の羊を持っている人があるとして、もしそれが安息日に穴に落ちこんだなら、手をかけて引き上げてやらないだろうか。
12:12 人は羊よりも、はるかにすぐれているではないか。だから、安息日に良いことをするのは、正しいことである」。
このように、心が律法の精神と一致しているなら、文字によらなくても、神と隣人への愛を実践できるのです。
この状態を、パウロは「律法の下にいない」と言っているのです。
どうしたら心が律法と一致するのか
では、どのようにしたら、心が律法と一致するのでしょうか。
それこそ、この手紙が何度も教えていることです。
「イエス・キリストを信じる信仰による」それが答えです。
神の律法に逆らってきた私たちが、心から悔い改め、主に助けを求めるなら、罪は赦され、神との和解が成立します。
するとその人は、御霊を受け、その新しい霊が、私たちの心に律法を書きつけてくれるのです。
ヘブル人への手紙
8:10 わたしが、それらの日の後、イスラエルの家と立てようとする契約はこれである、と主が言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつけよう。こうして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう。
これが新約です。
こうして私たちは、神の宮となるのです。
幕屋や神殿に収められた唯一の律法は何ですか?
神の宮に収められるべき唯一の律法は何ですか?
それは十戒です。
十戒がなければ、そこは神の宮ではありません。
十戒のあるところに、神の霊が住まわれるのです。
もし、私たちが肉の欲のままに生きるなら、罪が生まれます。
ヤコブの手紙
1:14 人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。
1:15 欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。
けれど、御霊によって歩くなら、決して肉の欲を満たすことはないとパウロは教えます。
ガラテヤ人への手紙
5:16 わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。
こうして、私たちは罪を犯さない者になれるのです。
なんという恵みでしょう。
これこそが、律法の下にいない状態であることを覚えてください。
ガラテヤ人への手紙
5:18 もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の下にはいない。
どの律法のことか
もう一つ、この手紙で注意しなければならないことがあります。
それは、各文脈が、どの律法について語っているかを考えることです。
ガラテヤ人への手紙
5:3 割礼を受けようとするすべての人たちに、もう一度言っておく。そういう人たちは、律法の全部を行う義務がある。
これを十戒に当てはめるなら、とんでもないことになります。
「姦淫をしないすべての人たちに、もう一度言っておく。そういう人たちは、律法の全部を行う義務がある」
決して、こんな勘違いをしないように気をつけてください。
パウロは、十戒を守らないようにと教えているのではありません。
義とされるためにモーセ律法(ことに割礼)を行うことのないように教えているのです。
この手紙の目的が、割礼を受けさせようとする人々から、無割礼の人々を守ることであったのを忘れてはいけません。
反対に、十戒についてはどう教えられているでしょうか。
手紙の結論を見てみましょう。
ガラテヤ人への手紙
6:15 割礼のあるなしは問題ではなく、ただ、新しく造られることこそ、重要なのである。
この意味が分かるでしょうか。
新しく造られるとは、新約を受けて新生し、心に律法が書きつけられることにほかなりません。
ですから、新しく造られることと、神の戒めを守ることは、同じことを指すのです。
コリント人への手紙 第一
7:19 割礼があってもなくても、それは問題ではない。大事なのは、ただ神の戒めを守ることである。
これこそが、新しく生まれた人の特徴です。
ヨハネの手紙 第一
3:9 すべて神から生れた者は、罪を犯さない。神の種が、その人のうちにとどまっているからである。また、その人は、神から生れた者であるから、罪を犯すことができない。
こうならなければ、誰も神の国を見ることはできないことを覚えてください。
ヨハネの福音書
3:3 イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。
おわりに
ガラテヤ人への手紙は、私たちがどのようにして義とされるのかを教えてくれます。
この「義とされる」とは、「義人ということにしておいてやろう」という弱々しいものではありません。
「義とされる」とは、紛れもなく、私たちが罪から解放され、義に生きるようになることです。
ペテロの手紙 第一
2:24 キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義に生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。
これが十字架の力です。
この癒やしを信じる人は、罪が癒やされ、もはや罪に支配されることがなくなります。
このことを信じますか?
信じて、律法違反を悔い改めるなら、誰でもこの恵みを受け取れます。
ヨハネの手紙 第一
3:4 罪を犯している者はみな、律法に違反しています。罪とは律法に違反することです。
3:5 あなたがたが知っているとおり、キリストは罪を取り除くために現れたのであり、この方のうちに罪はありません。
もし罪が取り除かれていないとしたら、それは神様のせいではありません。
その原因は、あなたが律法に同意していないことにあります。
罪から解放されるには、心から律法に服従し、それを心に書きつけてもらう必要があります。
ローマ人への手紙
6:17 しかし、神は感謝すべきかな。あなたがたは罪の僕であったが、伝えられた教の基準に心から服従して、
6:18 罪から解放され、義の僕となった。
ガラテヤ人への手紙は、このことについて教えているのです。
すなわち、この解放は、決して、割礼やモーセ律法の遵守で得られるものではなく、ただイエス・キリストを信じる信仰によってのみ、得られるのだと。
そして、次のことを忘れないでください。
この恵みは、誰にでも、ただで差し出されているのです。
これを受け取るなら、悔い改めた罪はすべて赦され、もはやその罪の奴隷ではなくなるのです。
しかし、受け取ろうとしない人に、この恵みがむりやり押しつけられることはありません。
律法を拒絶する人、罪を握りしめる人は、この恵みを受け取れないのです。
もう、頑になる必要はありません。
もう、罪に支配されたままでいることはないのです。
今日、その汚い罪を主に告白し、洗っていただきましょう。
この方は、絶対にあなたを拒絶することはありません。
完全に信頼し、その手の中に飛び込んでいいのです。
そのためにも、聖書を信じてください。
このブログを信じる必要はまったくありません。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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