聖書の矛盾に立ち向かえ
はじめに
聖書には矛盾のように感じられる教えがいくつかあります。
しかし、聖書が間違っているわけではありません。
次の二つの文章を見比べてみてください。
大学入試を受けることで大学に入れる。
大学入試を受けたからといって大学に入れるのではない。
この二つの文章のうち、どちらが間違っているでしょうか。
皆さんなら分かりますね。両方あっているのです。
それが分かるのは、皆さんが大学入試というものをよく分かっているからです。
けれど、まったく知らない人が読んだらどうでしょうか。
きっと矛盾を感じることでしょう。
それと同じです。
私たちが聖書に矛盾を感じるのは、私たちが知らないからなのです。
このことを念頭に置いて、聖書の矛盾に立ち向かってみましょう。
行いによる、行いによらない
アブラハムが義とされた理由について、聖書は次のように教えています。
どうでしょう。矛盾を感じるでしょうか。
聖書を信じるなら、アブラハムは行いによって義とされたのではないし、行いによって義とされたのです。
これはどういうことでしょうか。
文脈が違うのです。
前者は「信仰による義認」を説明するために書かれた文章で、
後者は「恵みを放縦に変える教え」を否定するために書かれた文章なのです。
信仰による義認
かつて人々は、律法を守ることによって義と認められるのだと思っていました。
彼らは憎しみや情欲を罪だとは思わなかったので、自力で律法を守れた気になっていたのです。
しかしイエス様は、心の中の罪まで問われることをはっきりと教えました。
それで、誰も律法を守ることによっては義を獲得できないことがわかったのです。
私たちに必要なのは、罪の赦しと、信仰です。
赦されることなしには、誰も義とされることはありません。
律法を守れたかどうかを問われるなら、私たちは絶望するしかないのです。
しかし、罪が赦され、義とされることを信じる信仰を良しと認めてもらえるなら、希望があります。
これが神の恵みです。
行いによるのではないと書かれたのは、このことを説明するためでした。
ところがどうでしょう。
今度は、赦されたのだからといって、律法を守らない人たちが現れたのです。
恵みを放縦に変える教え
救いは恵みによる、ゆえに、律法を守らなくてよい──
このような人々を、聖書は不信仰な人々と呼んでいます。
なぜでしょう。
それは、義とされることを信じていないからです。
信仰とは、罪が癒やされ、律法を守れるようになることを、心から信じることです。
ゆえに、信じる人は、けっして律法を無視しません。
それで急遽、警告の手紙が必要になりました。
ヤコブの手紙、ペテロの手紙、ヨハネの手紙、ユダの手紙などがそうです。
その内容は、信仰によって義とされるとはいえ、行いがなくなっているのなら、その信仰自体がないのだ、と警告するものです。
死んだ信仰は人を救いません。
私たちは、アブラハムと同じ信仰を持つ必要があるのです。
アブラハムは、どうして約束を受けたと書かれているでしょうか。
おわりに
聖書の矛盾に立ち向かえるようになったでしょうか。
本当は矛盾などなく、私たちが知らないだけなのです。
正しく知るなら、次のような聖句もはっきりとわかるようになります。
前者は、律法の行いによって義とされようとする律法主義を否定する言葉です。
後者は、信仰によるのだからといって、行いをなくしてしまった人への警告です。
言うまでもなく、私たちは「行いを伴う信仰」によって救われるのです。
良いことをした人は天国へ行き、悪いことをした人は地獄へ行く。
当たり前のように信じられていたこの教えを、
今や多くのクリスチャンが信じていません。
なぜ信じなくなったのでしょうか。
神学がこれを否定しているからです。
「恵みによるのだから行いは必要ない」
「信じるだけで救われる」
そのような間違った神学が、人々を聖書から遠ざけてしまったのです。
教えられてきた神学を手放す勇気はありますか?
勇気を出さないなら、あなたは暗闇で泣いて歯ぎしりすることになるでしょう。
勇気を出して、聖書の言葉を信じてください。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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