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安息日の過ごし方

はじめに

安息日の過ごし方について教えてほしいというリクエストを時々いただきます。
私自身、ほかの人がどうしているか、気になっていた時期もありました。

しかし、どうか考えてみてください。
もし私が、次の聖句から「安息日には外を出歩かないようにしています」と言ったらどうなるでしょう。

イザヤ書
58:13 もしあなたが、安息日に出歩かず──

聖書協会共同訳2018

するとそのために、外を出歩かなくなる人が現れるでしょう。

そのあとで、私が次の聖句を見つけ「やっぱり外を歩くようになった」と言ったらどうなるでしょう。

マルコの福音書
2:23 ある安息日に、イエスは麦畑の中をとおって行かれた。そのとき弟子たちが、歩きながら穂をつみはじめた。

するとまた、そのために外を出歩く人が現れるでしょう。

それは聖書に従っているのでしょうか。
それとも、人に従っているのでしょうか。

私たちが従うべき方

私たちが従うべきは、しゅお一人です。
私たちの師は、キリストをおいてほかにありません。

マタイの福音書
23:10 また、あなたがたは教師と呼ばれてはならない。あなたがたの教師はただひとり、すなわち、キリストである

教師の賜物たまものを持つ人は、じつにこのことを教えてあげなければなりません。
自分を師と呼ばせず、ただキリストだけを師と呼ばせる人、それが本当の教師です。

安息日の目的

安息日を正しく守るには、安息日が何のためにあるかを知らなければ始まりません。

マルコの福音書
2:27 また彼らに言われた、「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。

まず、安息日は私たちのためにあるのだとしゅは言われます。

では、私たちにどんな恩恵をもたらすためにあるのでしょうか。

ある教師は「私たちの体を回復し、健康を保つためだ」と言いますが、そうではありません。

エゼキエル書
20:20 私の安息日を聖別し、私とあなたがたとの間のしるしとせよ。それは、私が主、あなたがたの神であることを知るためである。

聖書協会共同訳2018

これが聖書の教えです。
安息日は、しゅが私たちの神であることを知るためにあるのです。

第七日は、しゅが私たちを造ってくださった記念日です。言わば、私たち全員の誕生日なのです。
ゆえに、どの日でもいいのではありません。

創世記
2:3 神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。

この日を祝うときのみ、私たちは自分たちの崇める神が、太陽神やほかの神々でなく、創造主であることを認識することができるのです。

一時的な律法

律法には「初めからそうであったもの」と、「あとから加えられたもの」があります。
神の義が変化することはありませんが、社会生活のルールは変化することがあるのです。

安息日にも、あとから加えられたルールがありました。

出エジプト記
35:2 ──この日に仕事をする者はだれでも殺されなければならない
35:3 安息日にはあなたがたのすまいのどこでも火をたいてはならない」。

この社会生活のルールは、キリストが来て異邦人に救いが及んだとき、廃棄されました。

エペソ人への手紙
2:14 キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、
2:15 数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである──

一方、神の戒めについては、次のようの教えられています。

マタイの福音書
5:18 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。
5:19 それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。

律法主義の危険性

「あれをしてもいいですか?」「これをしてはいけませんか?」
そう言いたくなるとき、私たちは気をつける必要があります。

それは、律法主義に陥った人の特徴です。
その心の奥底には、本当はそうしたくないのに、最低限のルールを守って、どうにか天国へ入ろうとする精神が潜んでいる場合があります。

それはもはや、御霊みたまを受けたときの状態ではありません。

ガラテヤ人への手紙
3:2 わたしは、ただこの一つの事を、あなたがたに聞いてみたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか
3:3 あなたがたは、そんなに物わかりがわるいのか。御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか。

働かないことが大切なのではない

次の聖句からわかることは何でしょう。

出エジプト記
16:29 見よ、主はあなたがたに安息日を与えられた。ゆえに六日目には、ふつか分のパンをあなたがたに賜わるのである──

それは、私たちに安息を与えてくださるのは、しゅご自身だということです。

その日に誰一人、働かなくても、私たちは生きていけます。
私たちはしゅ信頼して、仕事を休んでもいいのです。

しかし、信頼しない人もいました。

民数記
15:32 イスラエルの人々が荒野におるとき、安息日にひとりの人が、たきぎを集めるのを見た。
(途中省略)
15:35 そのとき、主はモーセに言われた、「その人は必ず殺されなければならない。全会衆は宿営の外で、彼を石で撃ち殺さなければならない」。

ここでしゅが怒っておられることは何でしょう。
それは、しゅ信頼せず反逆の精神が見られたことです。

一方、次のような教えもあります。

マタイの福音書
12:5 また、安息日に宮仕えをしている祭司たちは安息日を破っても罪にはならないことを、律法で読んだことがないのか。

なぜでしょうか。
それは、このような仕事は、決してしゅへの反逆不信仰を現すものではないからです。

「働かないこと」に目が行きがちですが、大切なのはそこではないのです。

ヨハネの福音書
5:16 そのためユダヤ人たちは、安息日にこのようなことをしたと言って、イエスを責めた。
5:17 そこで、イエスは彼らに答えられた、「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」

イエス様の過ごし方は、ほかの人から見れば、安息日を聖別しているようには見えなかったでしょう。
しかし、その過ごし方こそ、正しい安息日の過ごし方だったのです。

大切なのは愛

大切なのは、私たちがしゅを愛しているかどうかです。
そのような人は、文字によってではなく、その方を喜ばせようとして仕えるようになります。

ローマ人への手紙
7:6 しかし今は、わたしたちをつないでいたものに対して死んだので、わたしたちは律法から解放され、その結果、古い文字によってではなく、新しい霊によって仕えているのである

そもそも律法は、逆らう人のためにあることを覚えてください。

テモテへの手紙 第一
1:9 すなわち、律法は正しい人のために定められたのではなく、不法な者と法に服さない者──
(途中省略)
1:10 ──のために定められていることを認むべきである。

このとおり、神への正しい愛があるなら、文字に仕える必要はありません。

しゅ本当の安息日の過ごし方を私たちに教えてくれました。
次の聖句から、あなたはどんなことを学びますか。

ルカの福音書
13:15 主はこれに答えて言われた、「偽善者たちよ、あなたがたはだれでも、安息日であっても、自分の牛やろばを家畜小屋から解いて、水を飲ませに引き出してやるではないか。
13:16 それなら、十八年間もサタンに縛られていた、アブラハムの娘であるこの女を、安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったか」。

おわりに

安息日に厳密なルールを設けることは、ある意味、私たちの心に安心感をもたらします。
「これさえ守っていれば罪にはならない」そうやって、最低限の行いに満足を得るのです。

しかし、そういったルールのせいで、パリサイ派の人々がつまずいてしまったことを思い出してください。

大切なのは、愛によって働く信仰です。

「働かないこと」が大切なのではなく、しゅへの愛と信頼こそが大切なのです。
今日からルールも束縛もない、有意義な安息日を過ごしましょう。天の国民として、喜んで創造の記念日を祝いましょう。

そのために、お菓子を焼いてはだめですか? ジュースを買ってはだめですか?

一人ひとりが聖書から学び、心の中で確信をもって行ってください。
正しいのは、いつだって聖書だからです。

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