安息日の過ごし方
はじめに
安息日の過ごし方について教えてほしいというリクエストを時々いただきます。
私自身、ほかの人がどうしているか、気になっていた時期もありました。
しかし、どうか考えてみてください。
もし私が、次の聖句から「安息日には外を出歩かないようにしています」と言ったらどうなるでしょう。
するとそのために、外を出歩かなくなる人が現れるでしょう。
そのあとで、私が次の聖句を見つけ「やっぱり外を歩くようになった」と言ったらどうなるでしょう。
するとまた、そのために外を出歩く人が現れるでしょう。
それは聖書に従っているのでしょうか。
それとも、人に従っているのでしょうか。
私たちが従うべき方
私たちが従うべきは、主お一人です。
私たちの師は、キリストをおいてほかにありません。
教師の賜物を持つ人は、じつにこのことを教えてあげなければなりません。
自分を師と呼ばせず、ただキリストだけを師と呼ばせる人、それが本当の教師です。
安息日の目的
安息日を正しく守るには、安息日が何のためにあるかを知らなければ始まりません。
まず、安息日は私たちのためにあるのだと主は言われます。
では、私たちにどんな恩恵をもたらすためにあるのでしょうか。
ある教師は「私たちの体を回復し、健康を保つためだ」と言いますが、そうではありません。
これが聖書の教えです。
安息日は、主が私たちの神であることを知るためにあるのです。
第七日は、主が私たちを造ってくださった記念日です。言わば、私たち全員の誕生日なのです。
ゆえに、どの日でもいいのではありません。
この日を祝うときのみ、私たちは自分たちの崇める神が、太陽神やほかの神々でなく、創造主であることを認識することができるのです。
一時的な律法
律法には「初めからそうであったもの」と、「あとから加えられたもの」があります。
神の義が変化することはありませんが、社会生活のルールは変化することがあるのです。
安息日にも、あとから加えられたルールがありました。
この社会生活のルールは、キリストが来て異邦人に救いが及んだとき、廃棄されました。
一方、神の戒めについては、次のようの教えられています。
律法主義の危険性
「あれをしてもいいですか?」「これをしてはいけませんか?」
そう言いたくなるとき、私たちは気をつける必要があります。
それは、律法主義に陥った人の特徴です。
その心の奥底には、本当はそうしたくないのに、最低限のルールを守って、どうにか天国へ入ろうとする精神が潜んでいる場合があります。
それはもはや、御霊を受けたときの状態ではありません。
働かないことが大切なのではない
次の聖句からわかることは何でしょう。
それは、私たちに安息を与えてくださるのは、主ご自身だということです。
その日に誰一人、働かなくても、私たちは生きていけます。
私たちは主を信頼して、仕事を休んでもいいのです。
しかし、信頼しない人もいました。
ここで主が怒っておられることは何でしょう。
それは、主を信頼せず、反逆の精神が見られたことです。
一方、次のような教えもあります。
なぜでしょうか。
それは、このような仕事は、決して主への反逆や不信仰を現すものではないからです。
「働かないこと」に目が行きがちですが、大切なのはそこではないのです。
イエス様の過ごし方は、ほかの人から見れば、安息日を聖別しているようには見えなかったでしょう。
しかし、その過ごし方こそ、正しい安息日の過ごし方だったのです。
大切なのは愛
大切なのは、私たちが主を愛しているかどうかです。
そのような人は、文字によってではなく、その方を喜ばせようとして仕えるようになります。
そもそも律法は、逆らう人のためにあることを覚えてください。
このとおり、神への正しい愛があるなら、文字に仕える必要はありません。
主は本当の安息日の過ごし方を私たちに教えてくれました。
次の聖句から、あなたはどんなことを学びますか。
おわりに
安息日に厳密なルールを設けることは、ある意味、私たちの心に安心感をもたらします。
「これさえ守っていれば罪にはならない」そうやって、最低限の行いに満足を得るのです。
しかし、そういったルールのせいで、パリサイ派の人々が躓いてしまったことを思い出してください。
大切なのは、愛によって働く信仰です。
「働かないこと」が大切なのではなく、主への愛と信頼こそが大切なのです。
今日からルールも束縛もない、有意義な安息日を過ごしましょう。天の国民として、喜んで創造の記念日を祝いましょう。
そのために、お菓子を焼いてはだめですか? ジュースを買ってはだめですか?
一人ひとりが聖書から学び、心の中で確信をもって行ってください。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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