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安息日の過ごし方

はじめに

安息日の過ごし方について教えてほしいというリクエストを時々いただきます。
私自身、ほかの人がどうしているか、気になっていました。

しかし、どうか考えてみてください。
もし私が、次の聖句から「安息日には外を歩かないようにしています」と言ったらどうなるでしょう。

イザヤ書
58:13 もし安息日にあなたの足をとどめ、わが聖日にあなたの楽しみをなさず、安息日を喜びの日と呼び、主の聖日を尊ぶべき日ととなえ、これを尊んで、おのが道を行わず、おのが楽しみを求めず、むなしい言葉を語らないならば、
58:14 その時あなたは主によって喜びを得、わたしは、あなたに地の高い所を乗り通らせ、あなたの先祖ヤコブの嗣業をもって、あなたを養う」。これは主の口から語られたものである。

するとそのために、外を出歩かなくなる人が現れるでしょう。

そのあとで私が次の聖句を見つけ「やっぱり外を歩くようになった」と言ったらどうなるでしょう。

マルコの福音書
2:23 ある安息日に、イエスは麦畑の中をとおって行かれた。そのとき弟子たちが、歩きながら穂をつみはじめた。

するとまた、そのために外を出歩く人が現れるでしょう。

それは聖書に従っているのでしょうか。
それとも、人に従っているのでしょうか。

私たちが従うべき方

私たちが従うべきは、しゅお一人です。
私たちの師は、キリストをおいてほかにありません。

マタイの福音書
23:10 また、あなたがたは教師と呼ばれてはならない。あなたがたの教師はただひとり、すなわち、キリストである

教師の賜物たまものを持つ人は、じつにこのことを教えてあげなければなりません。
自分を師と呼ばせず、一切の上下関係を捨て、ただキリストだけを師と呼ばせる人、それが本当の教師です。

律法主義の危険性

「あれをしてもいいですか?」「これをしてはいけませんか?」そう言いたくなるとき、私たちは気をつける必要があります。

それは、律法主義に陥った人の特徴です。
心の奥底には、本当はそうしたくないのに、最低限のルールを守って、どうにか体裁を整えようとする精神が潜んでいる場合があります。

その状態は、もはや御霊みたまを受けたときの状態ではありません。

ガラテヤ人への手紙
3:2 わたしは、ただこの一つの事を、あなたがたに聞いてみたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか
3:3 あなたがたは、そんなに物わかりがわるいのか。御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか。

私たちは律法を行うことによって御霊みたまを受けたのではありません。
聞いて、信じる者となったので、御霊みたまを受けたのです。

大切なのは愛

大切なのは、私たちがイエス・キリストを愛しているかどうかです。
しゅを愛し、しゅを最優先にする人は、心からその律法に服従し、文字に書かれた以上のことを進んで行うはずです。

聖書は、第七日が創造の記念日であり、この日が聖別されていることを教えてくれます。

創世記
2:3 神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。

そしてしゅは、私たちに十戒じっかいを与え、安息日をけがすことは罪だと教えてくれました。

その一方で、律法が明示していないことについては、各自が心の中で確信を持つようにとも聖書は教えます(ローマ14:22)。

安息日をけがすことは神様の御心みこころではありませんが、何をもってけがしたとするかは、人によって違うのです。

安息日に電気を使ったり、水を買ったりすることを、罪だと思う人もいれば、そうでない人もいます。
それを裁くことはできないし、人に押しつけることもできません。

大切なのは、しゅを愛する心です。

次の聖句から、あなたはどんなことを学びますか。

ルカの福音書
13:15 主はこれに答えて言われた、「偽善者たちよ、あなたがたはだれでも、安息日であっても、自分の牛やろばを家畜小屋から解いて、水を飲ませに引き出してやるではないか。
13:16 それなら、十八年間もサタンに縛られていた、アブラハムの娘であるこの女を、安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったか」。

安息日の目的

安息日を正しく守るには、安息日が何のためにあるのかを知らなければ始まりません。

マルコの福音書
2:27 また彼らに言われた、「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。

安息日は私たちのためにあるのだとしゅは言われます。

では、私たちにどんな恩恵をもたらすためにあるのでしょうか。

ある教師は「私たちの体を回復し、健康を保つためだ」と言いますが、そうではありません。

エゼキエル書
20:20 私の安息日を聖別し、私とあなたがたとの間のしるしとせよ。それは、私が主、あなたがたの神であることを知るためである。

聖書協会共同訳2018

これが聖書の教えです。
安息日は、しゅが私たちの神であることを知るためにあるのです。

あとから加えられたもの

もう一つ、私たちが注意すべきことがあります。
それは、律法には「初めからそうであったもの」と、「あとから加えられたもの」があるということです。

マタイの福音書
19:8 イエスが言われた、「モーセはあなたがたの心が、かたくななので、妻を出すことを許したのだが、初めからそうではなかった。
19:9 そこでわたしはあなたがたに言う。不品行のゆえでなくて、自分の妻を出して他の女をめとる者は、姦淫を行うのである」。

ここで「初めから」しゅが言われた律法は、モーセ律法ではなく、十戒じっかいです。

これに対し、モーセ律法はあとから加えられた律法であり、御子みこが来るまで存続するだけのものだと書かれています。

ガラテヤ人への手紙
3:19 それでは、律法(モーセ律法)はなんであるか。それは違反を促すため、あとから加えられたのであって、約束されていた子孫が来るまで存続するだけのものであり、かつ、天使たちをとおし、仲介者の手によって制定されたものにすぎない。

安息日にも、あとから加えられたルールがあります。

出エジプト記
35:2 ──この日に仕事をする者はだれでも殺されなければならない
35:3 安息日にはあなたがたのすまいのどこでも火をたいてはならない」。

まずは、これが十戒じっかいの文面ではないことに注意してください。

これはあとから加えられたものであり、国家でなければ守れない命令です。
国家としての隔ての壁が取り除かれた今、個人が無理に守るものではありません。そのことを、私たちは素直に受け入れる必要があります。

ある人は、安息日に火を焚けないというので、エアコンをつけたいときには、異教徒にお願いするそうです。
それは、誰かを殺したいと思ったとき、他人に依頼するなら、罪とはならないという精神です。
そんな偽善者にならないためにも、神様の意図をしっかりと把握しておきましょう。

おわりに

安息日に厳密なルールを設けることは、ある意味、私たちの心に安心感をもたらします。
「これさえ守っていれば罪にはならない」そうやって、最低限の行いに満足を得るのです。

しかし、そこに愛はあるでしょうか。
そういったルールのせいで、パリサイ派の人々がつまずいてしまったことを思い出してください。

大切なのは、愛によって働く信仰です。
私たちは律法の文字から解放され、新しい霊によって仕えるのだと聖書は教えます。

ローマ人への手紙
7:6 しかし今は、わたしたちをつないでいたものに対して死んだので、わたしたちは律法から解放され、その結果、古い文字によってではなく、新しい霊によって仕えているのである。

文字は、方向性を示すガイドに過ぎません。それは守らない人のためにあるのであって、守る人のためにあるのではないと聖書は言います(Iテモテ1:9)。

「どんな仕事もしてはならない」とは、
この日を一般の日から切り分けて、祝日としなさいということです。
「働かないこと」に目が行きがちですが、大切なのはそこではありません。

ヨハネの福音書
5:16 そのためユダヤ人たちは、安息日にこのようなことをしたと言って、イエスを責めた。
5:17 そこで、イエスは彼らに答えられた、「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」。

イエス様の過ごし方は、ほかの人から見れば、安息日を聖別しているようには見えませんでした
しかし、その過ごし方こそ、正しい安息日の過ごし方だったのです。

私たちもしゅに倣い、今日からルールも束縛もない、有意義な安息日を過ごしましょう。天国の国民として、喜んで創造の記念日を祝いましょう。

そのために、お菓子を焼いてはだめですか? ジュースを買ってはだめですか?

一人ひとりが聖書から学び、心の中で確信を持って行ってください。
正しいのは、いつだって聖書だからです。

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