安息日の過ごし方
はじめに
安息日の過ごし方について教えてほしいというリクエストを時々いただきます。
私自身、ほかの人がどうしているか、気になっていました。
しかし、どうか考えてみてください。
もし私が、次の聖句から「安息日には外を歩かないようにしています」と言ったらどうなるでしょう。
するとそのために、外を出歩かなくなる人が現れるでしょう。
そのあとで私が次の聖句を見つけ「やっぱり外を歩くようになった」と言ったらどうなるでしょう。
するとまた、そのために外を出歩く人が現れるでしょう。
それは聖書に従っているのでしょうか。
それとも、人に従っているのでしょうか。
私たちが従うべき方
私たちが従うべきは、主お一人です。
私たちの師は、キリストをおいてほかにありません。
教師の賜物を持つ人は、じつにこのことを教えてあげなければなりません。
自分を師と呼ばせず、一切の上下関係を捨て、ただキリストだけを師と呼ばせる人、それが本当の教師です。
律法主義の危険性
「あれをしてもいいですか?」「これをしてはいけませんか?」そう言いたくなるとき、私たちは気をつける必要があります。
それは、律法主義に陥った人の特徴です。
心の奥底には、本当はそうしたくないのに、最低限のルールを守って、どうにか体裁を整えようとする精神が潜んでいる場合があります。
その状態は、もはや御霊を受けたときの状態ではありません。
私たちは律法を行うことによって御霊を受けたのではありません。
聞いて、信じる者となったので、御霊を受けたのです。
大切なのは愛
大切なのは、私たちがイエス・キリストを愛しているかどうかです。
主を愛し、主を最優先にする人は、心からその律法に服従し、文字に書かれた以上のことを進んで行うはずです。
聖書は、第七日が創造の記念日であり、この日が聖別されていることを教えてくれます。
そして主は、私たちに十戒を与え、安息日を汚すことは罪だと教えてくれました。
その一方で、律法が明示していないことについては、各自が心の中で確信を持つようにとも聖書は教えます(ローマ14:22)。
安息日を汚すことは神様の御心ではありませんが、何をもって汚したとするかは、人によって違うのです。
安息日に電気を使ったり、水を買ったりすることを、罪だと思う人もいれば、そうでない人もいます。
それを裁くことはできないし、人に押しつけることもできません。
大切なのは、主を愛する心です。
次の聖句から、あなたはどんなことを学びますか。
安息日の目的
安息日を正しく守るには、安息日が何のためにあるのかを知らなければ始まりません。
安息日は私たちのためにあるのだと主は言われます。
では、私たちにどんな恩恵をもたらすためにあるのでしょうか。
ある教師は「私たちの体を回復し、健康を保つためだ」と言いますが、そうではありません。
これが聖書の教えです。
安息日は、主が私たちの神であることを知るためにあるのです。
あとから加えられたもの
もう一つ、私たちが注意すべきことがあります。
それは、律法には「初めからそうであったもの」と、「あとから加えられたもの」があるということです。
ここで「初めから」と主が言われた律法は、モーセ律法ではなく、十戒です。
これに対し、モーセ律法はあとから加えられた律法であり、御子が来るまで存続するだけのものだと書かれています。
安息日にも、あとから加えられたルールがあります。
まずは、これが十戒の文面ではないことに注意してください。
これはあとから加えられたものであり、国家でなければ守れない命令です。
国家としての隔ての壁が取り除かれた今、個人が無理に守るものではありません。そのことを、私たちは素直に受け入れる必要があります。
ある人は、安息日に火を焚けないというので、エアコンをつけたいときには、異教徒にお願いするそうです。
それは、誰かを殺したいと思ったとき、他人に依頼するなら、罪とはならないという精神です。
そんな偽善者にならないためにも、神様の意図をしっかりと把握しておきましょう。
おわりに
安息日に厳密なルールを設けることは、ある意味、私たちの心に安心感をもたらします。
「これさえ守っていれば罪にはならない」そうやって、最低限の行いに満足を得るのです。
しかし、そこに愛はあるでしょうか。
そういったルールのせいで、パリサイ派の人々が躓いてしまったことを思い出してください。
大切なのは、愛によって働く信仰です。
私たちは律法の文字から解放され、新しい霊によって仕えるのだと聖書は教えます。
文字は、方向性を示すガイドに過ぎません。それは守らない人のためにあるのであって、守る人のためにあるのではないと聖書は言います(Iテモテ1:9)。
「どんな仕事もしてはならない」とは、
この日を一般の日から切り分けて、祝日としなさいということです。
「働かないこと」に目が行きがちですが、大切なのはそこではありません。
イエス様の過ごし方は、ほかの人から見れば、安息日を聖別しているようには見えませんでした。
しかし、その過ごし方こそ、正しい安息日の過ごし方だったのです。
私たちも主に倣い、今日からルールも束縛もない、有意義な安息日を過ごしましょう。天国の国民として、喜んで創造の記念日を祝いましょう。
そのために、お菓子を焼いてはだめですか? ジュースを買ってはだめですか?
一人ひとりが聖書から学び、心の中で確信を持って行ってください。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
(気に入った記事はSNSでシェアしていただければ幸いです)
こちらの記事も参考にどうぞ。