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よちよちクリスチャンの聖書ノート

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幼子のようなクリスチャンの私が、幼子のような目で聖書から発見した真理をお伝えします。
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2022年5月の記事一覧

人はなぜ滅びるのか

はじめに聖書は、人の滅びについて語っています。 神様は、人を滅ぼしたいのでしょうか。 いいえ。 神様は、すべての人が救われることを望んでおられます。 それなら、なぜ人は滅びるのでしょうか。 これはとても大切なことですから、ご一緒に聖書から確認してみましょう。 人の選択権先ほどの聖句にあったように、神様は、どのような人が滅びることも望んではおられません。 仮に、神様が一方的に人の運命を選ぶのだとしたら、すべての人が救われることを選ぶでしょう。 そうなさらないのは

新約とは

はじめに「旧約」「新約」とは何でしょう。 それは契約です。 聖書は、「古い契約」と「新しい契約」について教えてくれます。 私たちは誰でも、神と契約を結ぶことができるのです。 その契約の内容とは、一体どんなものでしょうか。 誤解を生んできた教えまずは、一般的に教えられている解釈を見てみましょう。 あながち間違いではありませんが、これは大変な誤解を生みます。 それは、「新しい契約に入った人は、律法を守らなくてよくなる」という誤解です。 断じてそうではない、と聖書は

主に依り頼む人の幸い

はじめに聖書は、主に依り頼む人の幸いを繰り返し語っています。 私たちはなかなか主に頼ることのできない存在ですが、正しい教えを知り、失敗から繰り返し学ぶことで、少しずつそれができるようになっていきます。 また、主のほかにどんな人にも頼ってはいけないことも、聖書は繰り返し語っています。 そのことを今日、確かめてみましょう。 心の貧しい者は幸いであるイエス様が宣教を開始されたとき、最初に語った教えは何でしょう。 直訳すると、「霊が足りていない者は、幸せな者たちだ」そう言っ

なぜ救い主が必要なのか

はじめに私たちは、なぜ「救い主」を必要とするのでしょうか。 自分は「救われた」と思っているクリスチャンでも、「救い主」は必要なのでしょうか。 ご一緒に、聖書から確認してみましょう。 私たちは裁きを受ける人には、一度死ぬことと、裁きを受けることが定まっている、そう聖書は教えます。 この裁きによって有罪とされる人は、火に投げ込まれると聖書は教えます。 ここで注意してください。 義人だけが残るのです。 これこそが、私たちに「救い主」が必要な理由です。 天国に入る基準天

「信仰による義」と「義認」の違い

はじめに「あなたを猫と見なします」 「あなたを猫にします」 この二つの文章は、まったく違うことを述べていますね。 もしこれを同じ意味だと考えるなら、書き手の意図をまったく汲み取れていないことになります。 「義認」と「信仰による義」についても、これと同じことが言えます。 この二つを区別していないなら、意図を汲み取れないどころか、義認を受けることさえできません。 実際、多くのクリスチャンが、義認を受けていない可能性があります。 これはとても大切なことですから、ご一緒に

やさしく解説「ローマ人への手紙」

はじめに「ローマ人への手紙」は、信仰の基礎を学ぶ上でとても重要な書です。 ところが、この書は読む人によって、全く違った理解を与えます。 ある人は、律法が無効になったことを確信し、またある人は、律法が無効になっていないことを確信します。 パウロの伝え方が下手なのでしょうか。 しかし、彼に書かせたのは神です。 この現状について、ご一緒に聖書から確認してみましょう。 ここでは、メインテーマだけを扱います。 「ローマ人への手紙」のメインテーマは、「いかにして義とされるか」です

「信仰による義」とは

はじめに聖書には、二つの義が示されています。 一つは、救い主を必要としない義。「律法の行いによる義」です。 もう一つは、救い主を必要とする義。「信仰による義」です。 ところが、この言葉には誤解の余地があります。 まるで、律法を守るか、守らないかが問われているように錯覚することです。 けれどその錯覚を、パウロは明確に否定しています。 「信仰による義」は、かえって律法を全うすることにつながるというのです。 これについて、ご一緒に聖書から確認してみましょう。 義とは何か

私たちの中に潜む党派心

はじめに多くのクリスチャンが、心から信じていない御言葉があります。 以下のような御言葉がそれです。 このような厳しい教え、救いの確定を否定するような教えを、嫌う人たちがいます。 それである教会は、次のように教えるようになりました。 「このようなことをしていても、恵みのゆえに神の国を継ぐことができる」 すると人々は、そう教える教会にばかり集まるようになりました。 そしていつしか、それは主流派となりました。 もはや彼らは、聖書の言葉に耳を傾けません。 これでいいのでし