暴力と愛と、北野武「首」
北野武の「首」を見てきた。そうして、なぜ、人は信長と光秀の話にこんなにも惹かれるのであろうと思った。信長の人生は一発逆転の桶狭間から始まり、光秀の裏切りによる本能寺の炎上で終わる劇的なものだからだろうか。
その家臣たちは彼の暴力にまみれた天下取りに付き合った。
それは、出世できるという意味以外のなにかを感じるのである。
現実の本能寺の光秀は信長より年上で60代の疲れはてた武将だった。
彼は越前の一乗谷で医者をしていて、最後の将軍である足利義昭の取り巻きに気に入られて仕官したことは事実で、彼らを納得させうる年上の魅力的な男性だったらしい。
美濃の斎藤道三の妻の実家である明智家本流が滅んだ後にいく人かの親族を養っていた人であることは確実なんだと思う。
そして、京都で教育を受けた人なんだろうなっていうのを感じる。
宣教師のルイス・フロイスの手記で、彼の妻と子どもたちの洗練された姿が憧れを持って描かれている。
かっこいいが好きな彼が義輝よりも信長に仕えたのは、黒人を従者にするような、自分のエゴに忠実な信長に、未来をみたからだろう。
それを惚れていたと解釈する北野武は間違ってはいないと思う。
それゆえに能力のある光秀はぼろ切れのようにこき使われるのである。
今回の加瀬亮の尾張弁丸出しで暴君である信長は彼の自己愛の高さと人の心に食い込む暴力性の一面を描いたんだろうと思う。
加瀬亮は帰国子女で育ちがとてもいい人らしい。しかし、俳優を目指す無頼なとこがあるわけで、アウトレイジのインテリやくざは面白かった。
あの映画は、北野武の最近の作でいっとう面白いと思う。
荒木村重のまんじゅうのエピソードは嘘かなって思ったけど、割と古くある話らしい。作られた話だとしても、そこにエロスが漂うのは、愛が根本的にもつ暴力があり、今でもそういう服従に引かれて自己を喪失する快感は存在する。そこが信長に人が惹かれる理由なんかなって思う。
今回の「首」は荒木村重の反乱から山崎の合戦までの見せ場を映像化していて楽しかった。西島秀俊は最後まで端正だし、木村祐一の身体能力には驚いたし、中村獅童の虚無感も良かった。
まあ、かつてあった人間の切実感は感じなく、ぼんやりはしていた。
だから、おすすめはしない。
でも、こうあってほしい戦国描写がたくさんあるので、妄想が気にならないのなら楽しめると思う。
事実、カンヌでは笑いがたえなかったらしい。たぶん、アウトレイジより、扮装で役がわかりやすく、エキゾチズムな好奇心を掻き立てられたと思う。
私がいいなって思ったのは、馬揃えで京都の人たちが美しいなって感嘆しながら、光秀と信長の行列を見物するシーンだ。実際そうだったんだろう。
でも、近づいて見ると暴力によるサディズムとマゾヒズムにまみれた世界だ。
最後はお笑いなシーンになってしまった、美しく映像化された秀吉に攻められ水に沈められた鳥取城の城主の湖上の切腹も、遠く冷めた視線から見ると滑稽でしかない。
そういった映像の遠さのある美しさが、北野武の視線かなって思う。
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