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今を生きる

小説が全盛期だったとき、週刊や月刊で連載されていた。ドストエフスキーの葬儀に当時のホームレスの人も参加するぐらい盛大だったのは、その頃の最新の娯楽のひとつが小説だったからだそうだ。みんな読んでいた。

瀬藤内寂聴の「奇縁まんだら」によると、昔の小説家の講演会はとても盛況だったらしい。競争が激しかったので、人間性が面白くルックスがいい人が生き残った。私が祖母に聞いた話では、当時おしゃれな小説を書くという、菊池寛の講演会に行くとブサイクなおっさんでがっかりしたそうだ。
祖父は小説家を目指していたらしいし。流行の職業だったわけだ。
また、同人誌活動もさかんだった。

今、小説で物足りないのは大長編が成り立たなくなったことだ。
週刊連載の池波正太郎の真田太平記などは細部のエピソードが楽しかった。
直木賞をとった「熱源」なんかとても面白かったけど、盛り沢山なんで長編で読みたかった。
ポーランドの初代首相になった革命家ピウスツキの兄で、ゴールデンカムイのウイルクのネタ元になった文化人類学者でアイヌと結婚したプロ二スワフの話なんで、すごく面白かったけど。活字の世界の衰退は感じる。

今はそういうの多くを集めているのは、漫画とかゲームとかかなって思う。
現代女性の風俗を描いた「明日私は誰かの彼女」が完結して良かった。
今の地方から来た女子大学生が奨学金のために、レンタル彼女とかしてるのがリアルに描かれていてショックだったんだけど、ダラダラ続かなく良かったなって思った。
ああ、話が消費されないって感じた。

そこに読み手とのレスポンスがあって今を生きている感じあるよね。
物語はどんな形でも今を取り込むことで生き残るのだ。

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