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アメ玉

 大阪のおばちゃんはいつもアメちゃんを持っていて、すぐ、くれるという伝説がある。そのとき思い出すのが、西原理恵子が、アジアの貧しいところにいるとき、子供たちにおかねでなく、アメ玉をあげるというエピソードだ。おかねは、すぐ、親たちに取り上げられて、お酒や薬物に変わってしまう。だから、ひとつぶのアメをあげるのだそうだ。アメだとその場で食べれるし、親にわたさなくても罪悪感は感じない。そして、甘みは即効性があり、元気がでる。頑張ろうという気持ちになれる。そう、サイバラはまんがで語っていた。 

 この夏、93歳のおじいさんの戦争の話を聞いた。そこで、強調されていたのは、政治家やお金持ちが立場の弱いものにわたす、甘いちょっとした特権としてのアメ玉という言葉だった。それはおいしいたべものでもあったり、色々だろう。そんなちょっとしたものを得るために、せっぱつまって、ひとはやすやすと魂まで、売り渡してしまう。おじいさんの言っていたアメ玉には子供扱いして、甘やかして支配するという意味もあると思う。戦後のギブミーチョコレートも似ている。アメリカ兵の罪悪感と優越感。こちらはご飯がわりでタチが悪い。でも、わかりやすい。

 アメ玉ってなんだろう。お酒や薬物は最初はきくけど、心がすぐ動けなくなる。けれど、アメ玉は中毒性はない。西原理恵子もうんとアメ玉をしゃぶらされ経験があるだろう。でも、アメだと思いこむと依存してることにならない。そこに含まれている、ひとつぶかもしれない愛を感じとるのだ。だから、「ぼくんち」で、ぼくのねえちゃんのカノコは、彼女を買うおとこを「ご飯食べさせて温いお布団をきせてくれるひと」と言い切ったのだ。

 ほんとに困っているとき、その場しのぎはありだ。だから、アメ玉に罪はない。しかし、それはほんのひとときだ。その後、そのことにもらったひとがどうかかわるかで、アメ玉は、愛にも、欺瞞にもなる。

 私は大阪うまれだ。でも、アメ玉を持ち歩く習慣はない。ひとのふところに飛び込む勇気である、良い意味のふてぶてしさがない。でも、たまにもらう立場だとほっとした。なにもできないけど、何かしたい。その気持ちはありがたい。けど、アメ玉は、体をととのえるご飯のかわりにはなれないのもほんとうだ。

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