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夕日が美しいと感じるのは

菜の花や月は東に日は西に

与謝蕪村

与謝蕪村は大阪の桜の名所、毛馬閘門(けまこうもん)の辺りの人らしい。明治のころ、淀川の洪水に悩む人々のために作られた近代的な水利施設だ。かつて、大阪城の北のこのあたりは農村だった。

蕪村はそこでちょっと裕福な農家とその女中の間に生まれたらしい。だが、母が亡くなると大阪の家を出て、一人で秩序からはずれて俳諧師として生きた。

先日、橋本治の人はなぜ「美しい」がわかるのかを読んでいたら、夕方の美しさが文学に現れるのは、日本でも江戸時代ぐらいからだと書かれていた。

橋本治は、小学校高学年で友人がたくさんでき、いっぱい外で遊べるようになった。ああ、楽しかった。明日も楽しいにちがいない。そのとき、夕日が美しいとはっきりと思ったらしい。

その後、彼がそのとき感情を忘れがたくて、その理由を知りたいと思っていろいろと調べた。

かつて、夜の闇が始まる夕日は不吉なものだった。寒かったり、獣に襲われたり、自らの悪行に身をさいなまれたり。その夜を乏しいろうそくや月明りでしのいだ。だからこそ、死の恐怖から解放される朝焼けは美しいものだった。

夕日が良きものになったのは、文明が進み、明日があることが確信されるようになったかららしい。

それは平和で、農耕が進んで食べ物の苦労がなくなり、商品があふれ、人々が楽しく交際した日々がずっと続くと感じられたときだ。

夕日を愛でるというのは心の豊かさなのだろう。子供時代は人に守られ、時間も縛られることも少ないので、それを初めて感じるころなのだろうと思う。蕪村もそのころ夕方の美しさを発見したのかもしれない。

しかし、人は大人になると生きるのにせわしく夕日を忘れがちだ。

この歌は蕪村が神戸の摩耶山に旅して歌われたらしい。眼下の灘は江戸時代ごろから始まった菜種油用の菜の花の生産地だった。夜の闇をはらう、ともしびの元だ。その菜の花の中、後ろの海に夕日が沈み、春の月が上がっていく。

菜の花はかつて日本中の農村に広がっていた。それは春の農耕のはじまりと明日の収穫を約束してくれていた。菜の花によせた感情は、もう人々から忘れられているのかもしれないけれど。


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